テレビや新聞といったいわゆる「マスメディア」は、その強い世論形成力や社会的影響力から、時に「第4の権力」と呼ばれ、政治や行政を上回るレベルで、国家の向かうべき進路や、市民の生命、身体、財産等の命運を確定づけてきた。
他方において、昨今のインターネットをはじめとする「メディアの多様化」の流れの中で、これら伝統的なマス媒体は大きな岐路に立たされている。
新旧のメディア、どこに向かうのか
戦後、表現の自由を重視する西欧型民主主義国家として再出発した我が国では、マスメディアの報道内容を行政当局が一般的に規制・監督する法律は存在しなかった。(1)災害時や選挙時における適切な報道体制を整備する若干の個別立法と、(2)公共の財産である有限希少な電波の割当を受ける「放送」に限定してその番組編集の自主・自律の枠組みを担保する「放送法」、等が存在するのみである。そして、近年急速に台頭する「インターネット」については、掲示板の誹謗中傷コメントの削除等に関する民事ルールを規定する「プロバイダ責任制限法」などわずかな立法にとどまっており、現実にWeb上のサイトは玉石混合で、伝統的なメディアにおいて長い年月をかけて形成されてきた報道倫理や秩序が十分に確立されている状況とは(まだ)言いがたい。
筆者は入省以来ほぼ一貫してメディア行政にたずさわってきた。これら新旧のメディアがこれからどこに向かっていくのか、そしてそれが日本の社会・政治・経済や市民の生活にどのような影響を及ぼし、変化をもたらしていくのか、関心をもって注視している。
外国メディアの目で、記者クラブ「閉鎖性」に警鐘
『テレビは総理を殺したか』(菊池正史 2011年2月 文春新書)は、官邸キャップなどを歴任した日本テレビの現役記者が、小泉政権誕生時など最近の主要な政局の際にテレビが果たした役割等を、当時の取材現場での実話などを交えて解き明かそうとしている。
「テレビ」は、ニュースだけでなく、ワイドショーや政治的バラエティーなど広いジャンルで政治を扱うメディアであり、「新聞」など他のメディアと比べ圧倒的な影響力を有する。90年代以降の各局報道番組の視聴率重視への路線転換を構造的背景として、小泉政権の「自民党をぶっ壊す」といった「ワンフレーズポリティックス」、「郵政解散」や「刺客騒動」といった「劇場型」政治によって、テレビが(図らずして)まんまと政権に利用されていく過程をつぶさに追っている部分などは特に興味深い。
『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(マーティン・ファクラー 2012年7月 双葉新書)は、ニューヨーク・タイムズ東京支局長が、東日本大震災やその後の福島原発の取材・報道の経緯などを丹念に追いながら、アウトサイダーである外国メディアの目で、日本の記者クラブ・システムの閉鎖性等の問題に警鐘をならしている。また、ブログなど新たなメディアの台頭の中、新聞がインターネット時代にどのように生きていくべきかについても、先行する米国の事例などを紹介しながら建設的な提案を行っている。
事業所管官庁(課長補佐級) 達磨
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