明治40年(1907年)、日本初の「美人写真コンクール」が行われた。米紙シカゴ・トリビューン社が、日本の時事新報社に「世界一の美人選抜」への参加依頼をしたことがきっかけだった。
全国からの応募は7000枚
主催者の呼びかけによって集まった写真は7000枚に上る。募集条件は、「女優。芸妓。其の他容色を職業の資とする者の写真は採用しない、写真に身長、胸囲、腰囲などの併記」といったものだ。地区予選のあと、彫塑家・高村光雲や洋画家・岡田三郎助、写真学者・大築千里、女形俳優・河合武雄ら、13人の著名人が審査員として名を連ねた二次審査も行われた。
7000もの写真が集まった背景には「女学生」への注目度が高まっていたことがあげられる。1899年に高等女学校令の施行により、女性たちの教育環境は大きく変わった。女学生向けの雑誌が刊行され始めたのもこの時期だ。応募写真のほとんどは、全国各地の「深窓の令嬢」たちだった。