60年代、70年代、そして80年代と、「ニューミュージック・マガジン」を舞台に、切れ味鋭い、それでいて決してアーティストへの愛情を忘れることのなかった独特の評論で、多くのミュージシャン、アーティスト、音楽評論家、音楽雑誌編集者に多大な影響を与えた、中村とうようさんが亡くなった。
昨夏には音楽評論家・今野雄二さんの訃報
報道によれば、中村とうよう(本名・東洋)さん(79)は2011年7月21日午前10時15分ごろ、都内にあるマンションの敷地内で、頭から血を流して倒れているのが見つかった。立川署の署員が駆けつけた時、自宅の玄関には鍵がかかり、室内には自殺をほのめかすメモもあったという。飛び降り自殺した可能性が高いと見られている。
昨年の夏頃には、今野雄二さんの訃報も聞いた。中村さんとは異なり、テレビなどのマスメディアを舞台に、やはり音楽評論家として一世を風靡した人だ。そういう意味では、活字と電波という2大メディアのそれぞれで音楽評論を担った2人が、相次いで亡くなったことになる。そして、今野さんも自殺だった。
余談だが、今野雄二さんはボクが当初プロデュースしていた頃の、音楽グループ「P-MODEL」が「MOMO色トリック」の中で揶揄していたこともあって、亡くなった頃には『今野雄二 P-MODEL』の検索数が増大していた記憶もある。
それにしても。今野さんの場合は「病気」だったと聞いているが、中村さんはなにがあったのだろうかと、思う。音楽評論の端くれをいまも続ける者としては、どこか理解可能な「パーツ」があるから余計に、気になっている。
音楽を評論することは無意味なのか?
音楽評論というジャンルは、すでに20年も前に枯死している。音楽を評論するということの無意味さをリスナーが声高に言い始めた時があった。「好き嫌いで良いじゃないか」と。それはその通りで、ことに音楽という嗜好品に近い表現はそれ以外の存在意義もみいだせないほど。ただ、評論の対象になリうる音楽というものも存在するのは確かだ。
中村とうようさんは、音楽評論という表現の場が失われたことに絶望したわけではないだろう。無理矢理にそうした場をこじ開けることだって、中村さんならできたはず。本当に何があったのだろう?
自死することの意味は、限りなく重い。例えどんな場合であっても、決して選んではならないと、多くの宗教は戒める。それを敢えて選ばなければならないほど切迫した状況とはどんな状況だったのだろう?
ただ、ご冥福を祈るしかないが、その意味を考えざるを得ない。
中村さんの死で音楽評論という表現が、決定的に死滅したように思う。
加藤 普