閑話休題 ―大人音(OTO NA OTO)―(1)

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   CDや音の紹介ではなく、筆者個人の音楽に対する諸々の見解などを書きたいと思っていました。今回は、その記念すべき第1回ということで「音楽ってなに?」という、どうでも良いような、難しいような、たくさんの意見もありそうで、悪くすれば論争の種にもなりそうなことを(?)書かせてもらいます!

「音を楽しむ」か「楽しい音」か

   こういう場合は、まず「音楽」を文字としてどう読み取るか? 「音を楽しむ」のか? それとも「楽しい音」か? というあたりから入るといいかもしれない。

   「音を楽しむ」ということであれば、楽しむ主体者は誰なのかが語られなければならない。それは聴き手でもあり、演奏者でもありうるけれど、いずれにしても「主体的」に音と関わる中心存在がある言葉だと思う。

   反対に、「楽しい音」ということになると、けっこう、放置プレー気味な言葉の印象。「誰にとって」というむしろ客体者(こんな言葉あったっけ?)が問われる言葉だ。

   いま音楽を生業にし、音楽と向き合っている人たちは、音楽との間にどんなスタンスを取っているのだろう?

   「音楽」は、誰が書いたのかは不明だが“Wikipedia”によれば「人間が組織づけた音である」とある。うまい! 座布団でもあげたいくらいだが、これはどちらかといえば「音を楽しむ」という主体的な音との関わりが元になっているようだ。

「音楽」という言葉に込められた意味

   ところで、「音楽」という言葉そのものは、中国で紀元前3世紀に成立した『呂氏春秋』に出てくる。そこには「音楽之所由来者遠矣、生於度量、本於太一」と表現されている。

   「度量」とは音の規則つまり音律を指すらしく、「太一」は本源的な宇宙の根本法則を意味する。してみると、「音楽」とは宇宙根源の法則から生まれた音律ということになる。ならば、初出の文字としての「音楽」は、放置プレーである「楽しい音」に近かったのか。

   基本的にはどちらでも良いことなのだろうが、音楽家であればその拠って立つ立ち位置で、できあがる音楽は根本的に違うものになるだろう。また、聴き手のスタンスの差は、音楽によって自分の中で沸き起こる"化学変化"の差になってでてくるだろう。

   上手い言葉が見つからないが、一過性なのか、永続的なのか、というくらいの差にはなりそうだ。「音楽ってなに?」という問いに明快には答えることはできないけれど、筆者としては「音楽によるだろ?」と実もふたもないところで終わりにしたい。

加藤 普

◆加藤 普(かとう・あきら)プロフィール
1949年島根県生まれ。早稲田大学中退。フリーランスのライター・編集者として多くの出版物の創刊・制作に関わる。70~80年代の代表的音楽誌・ロッキンFの創刊メンバー&副編、編集長代行。現在、新星堂フリーペーパー・DROPSのチーフ・ライター&エディター。

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