高校中退の「自叙伝」に思う...落ちこぼれでも、夢はあきらめないで【尾藤克之のオススメ】

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   著者はまだ10代、自称落ちこぼれの自叙伝である。今回取り上げる本書は、両親の愛情を感じずにはいられない作品でもある。本書を読んで思うところがあり、今回は私が過去に経験したことも交えながら考察していく。

『15歳の叫び あんな大人になりたくない』(松谷咲著) みらいパブリッシング

いじめられっ子、パトカーに乗る

   私が中学3年生の時のことだ。A君(ここではそう表記する)が転校してきた。A君は前の中学校で事件を起こして、転校を余儀なくされた(これは、後にわかったことである)。しかし、生徒は誰もこのことを知らない。たまたま私のグループ(クラスのいじめられっ子グループ)にA君がはいってきた。

   ところが、やはり変わったところがあるのだろう、些細なトラブルがあり、誰も口をきかなくなる。クラスの他の人たちとの交流はないから、一人ぽっちになってしまった。

   担任から、もう一度仲良くするように言われたので、A君の住まいに皆で行くことにした。呼び鈴を何回か押したが反応がない。「仕方ない、帰ろう」と思ったところ、A君がバットを振り回して襲い掛かってきた。

「お前ら、オレをやりにきたのか!」

   気が付いたら、私はバットの餌食になっていた。腕とあばらに激痛がはしった。グループの友達も数人が叩かれるなど被害を負っていた。ちなみに、私たちは何もしていない。一方的に打ちのめされただけである。

   10分くらい経っただろうか、パトカーと救急車がやってきた。被害者のはずだが、パトカーに乗せられた。いま考えると、A君の両親が呼んだのかもしれない。過去に事件を起こしているのだから、そうならないように先手を打った可能性はあった。

「シュプレヒコールの波、通り過ぎてゆく......」

   金八先生の「腐ったみかん」で流れた中島みゆきの「世情」がデジャブする。

   じつは私は、このあとの記憶がすっかり抜け落ちている。映画やドラマで、記憶喪失のシーンを見ることがある。まったく同じ状況なのだ。どうしても思い出すことができない。

   その後、担任が警察署に迎えにきて、帰路につく。親にはクラブ活動のメンバーと食事を食べてきたと話して、そのまま部屋に入ったことだけは覚えている。

   次の日、私を含めた全員は朝から校長室の前に正座をさせられた。誰がどう見たって、「いじめられっ子グループ」が悪さなどするはずがない。ところが、学校は私の意見を聞こうともしなかった。挙句の果てに、どうなったのか?

教師の嘘と圧力に翻弄される

   担任は「尾藤がやったって言わないと内申書を書かないぞ!」と、みんなを丸めこもうとしていた。全員、すぐに落ちる。事件があってから2日後、突然、身体が動かなくなった。学校まで行こうとするが、校舎を見たら涙が止まらない。

   いまなら「うつ」っぽい状況だとかわかるかもしれない。当時は、そんな言葉すら知らない。両親は私の異変に気づいていた。その日の夜にすべてを打ち明ける。翌日、父が学校に連絡をするが「けんもほろろ」だった。

「お宅のお子さんは大勢を引き連れて、一人の生徒の家に殴り込みにいったんだ!」
「内申書を書かないことだってできるんですよ!」
「少年院に入れることだってできるんだ!」

   場合によっては、ここで泣き寝入りをするケースもあるのだろう。幸いにも父は教育関係者と親交が深かった。そこから中野区に照会をいれて、すべてが判明した。

・A君は前の中学校で事件をおこし、転校を余儀なくされた。
・現中学校は受入れ先であるから、A君が再び事件を起こすことが許されなかった。
・よって、尾藤君にすべての責任を押し付けた。

   私も教育委員会に呼ばれて、直接説明を聞かされた。簡単に説明しているが、ここに至るまでに、事件発生から2カ月近くかかっていることを付記しておく。

日本でひとりの「再挑戦」を選択する

   私は通学できなくなってしまったため、家庭教師が毎日来るようになっていた。現役の東大生である。家庭教師も私の状況を理解してくれた。高校受験の模擬テストの出題傾向がよくあたる先生だった。そして、受験シーズンの2月を迎えることになる。

   2学期の内申書(成績と出席状況)が悪いため、私立一本に絞った。受験した高校は合計10校。しかし結果は、二次試験を含めて全滅だった。人としての尊厳を踏みにじられるような面接を何回も経験した。そのとき、確信した。学力をいくらつけても意味がない。内申書を変えないことには、高校にははいれないのだと。

   私は中野区立〇〇中学校の卒業予定だったが、卒業したら内申書はそのままだ。内申書を変えるには、留年するしかなかった。学校は必死になって、あの手この手で卒業させようとした。しかし、私の意思は固かった。

   「両親の実家がある大田区に住所を移して、大田区の中学校から中野区に転入してきたことにします」と教育委員会から連絡があった。

「さすがに、同じ中学校でやり直すと......下級生と同じクラスですからね」
「他の中学校に転入する方向で、うまく対応しておきます」

   受け入れ先は、中野区立〇〇中学校だった。教育委員会の人に聞いた。「私のように区立中学(公立)を卒業せずに、留年する人は日本で何人くらいいるんですか?」。その人はこう答えた。「尾藤君だけだと聞いています」と。そっか、日本でオレだけだったんだ。そして、最後まで、担任を含めた関係者から謝罪の言葉はなかった。

人生に折り合いをつけるとは?

   ちなみに、私がこの話をメディアに公開するのは初めてである。少しずつ話せるようになったのは数年前、つまりごく最近のことだ。なんで話せるようになったのか? それは自らの人生に折り合いがつけられるようになったからだと思う。

   著者の咲さんにひとこと(その前に、本稿はいつものテイストの書籍紹介から遠い内容になってしまったので、まずはこの点をお詫びしたい)。本書を読み、両親の望んだ人生を歩む必要はないが、咲さんにかけがえのない愛情を注いでいると感じる。自分が何者かわかるようになったら、また出版にチャレンジしてもらいたい。今回とはまったく違う一冊になるだろうと思う。エールを送ります。

◆追記として

   上のエピソードは1980年代のことで、当時は校内暴力が社会問題化していた。生徒が教師を襲ったり、教師が生徒を殴るのも当たり前の時代だった。いまとは時代背景が異なることも記しておきたい。

   私は15歳のとき、さきほど書いたようなことを経験した。同級生の父母からは「尾藤君はもう終わりね」と言われ、ゴシップとして扱われることにも、つくづくウンザリしたのを覚えている。たしかに、かなりのハンデになったことは間違いない。

   その後、高校~大学に進学した。卒業後は大学院に進学し、経済学と経営学を修了してダブルマスター(経済学修士、経営学修士)も取得した。本も21冊出版し、発信力の高い識者として紹介される機会も増えた。上場企業や事業会社の役員もそれなりに経験した。まだ、何者にもなれていないが、いまを楽しんでいる。

   最後に、いじめにあっている子供、つらい思いをしている人に「必ず道が開ける」ことをお伝えしたい。挫折は、とらえ方次第でどうにかなるものだ。よほど外れたことでなければ、「必ず道は開ける」のだと私は信じている。

   若い人には時間がある。しかし時間は無限ではない。あなたの成功を、こころからお祈りしています。(尾藤克之)

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尾藤 克之(びとう・かつゆき)
尾藤 克之(びとう・かつゆき)
コラムニスト、著述家、明治大学客員研究員。
議員秘書、コンサル、IT系上場企業等の役員を経て、現在は障害者支援団体の「アスカ王国」を運営。複数のニュースサイトに投稿。著書は『最後まで読みたくなる最強の文章術』(ソシム)など19冊。アメーバブログ「コラム秘伝のタレ」も連載中。
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