岸田文雄首相は2023年9月25日、物価対策などを中心とする5本柱の「経済対策」を打ち出した。
中でも特に力を入れているのが、税や社会保険料の負担によってパートで働く人の収入が減る、いわゆる「年収の壁」の解消策だ。
本当に「年収の壁」の解消ができるのか。「もの言うエコノミスト」たちが岸田首相に提言する。
インフレで目減りした税制・社会保障費額の底上げこそ図るべき
所得が一定を超えて扶養家族の対象外になるなど、税や社会保険料の負担が生じる主な「年収の壁」には、次のようなものがある。
パートタイムやアルバイトに所得税が発生する「103万円」。勤務先が一定条件を満たすと、厚生年金や健康保険に加入し、新たに社会保険料が発生する「106万円」(月収8万8000円)。
そして、夫の社会保険の扶養から外れる「130万円」。さらに、配偶者特別控除が減り始める「150万円」などだ。
このうち、特に手取り収入への影響が大きいため、勤務日数や勤務時間の条件で強く意識されるのが、「106万円」と「130万円」の「社会保険料の壁」だ。
政府は2023年9月27日、「年収の壁」をめぐり、壁を意識せずに働けるようにする当面の対応策を発表した。主な内容は、次の2点だ。
(1)「106万円の壁」について、現行のキャリアアップ助成金を活用して、従業員の収入増や保険料負担を軽減する手当を出す企業に対し、従業員1人最大50万円の助成金を出す。保険料負担は最大2年間のみ。
(2)また、「130万円の壁」では、一時的に年収が130万円以上になっても、企業が「一時的」との証明を出せば、原則連続2回まで扶養から外れないようにする。
順次、10月から実施するが、いずれにしろ2025年度までの暫定措置だ。
こうした内容をエコノミストはどう評価しているのか。
「暫定的な措置だとしても、インフレで目減りしている金額の底上げを図ることはできなかったのか」と疑問を投げかけるのが、第一生命経済研究所の首席エコノミストの熊野英生氏だ。
熊野氏はリポート「岸田首相の経済対策5本柱~3つの『なぜ?』~」(9月26日付)の中で、「岸田首相の経済対策の真の柱は、『106万円の壁』対策だろう。これは人手不足対策にもなる」としながらこう批判する。
「この壁対策は、かなり暫定的な色彩が強い。従業員100人以下の企業への対応は、事実上、130万円の枠を2年間だけ外すことに等しい。確かに、これだけ物価が上がっているので、何十年前からの額面130万円の価値はインフレ下で減価している。
政府もデフレ時代の感覚でいると、さまざまな金額上限が低くなっていることに気づかずに過ごすことになる。扶養の年収基準が実質的に低くなっていることに対しては、政府内の議論はあまり踏み込まなかったように感じる」
そしてこう付け加えた。
「扶養控除の枠は、実質的に減らしていくのが当たり前で、家族はなるべく働くべきだという価値観があるのだろうか。それとも、扶養の枠を見直すと、社会保険料の収支計算が狂うということへの配慮なのか。
その辺の論点も、一度、吟味してはどうかと思う。政府には、インフレ時代になる前からさまざまな金額基準を決めている。『会社の出張宿泊費』と同じように、その中にはすでに実質的に低すぎるものも多いはずだ。社会保障、税制についても、名目値の金額基準を一度総点検してみてはどうだろうか」
パート主婦に切実、将来の1万円より今の1万円!
本来、非正規雇用の人々を正規雇用にするためのバックアップ資金であるはずのキャリアアップ助成金を、「年収の壁」対策に使うことに批判的なのが、日本総合研究所調査部理事の西沢和彦氏だ。
西沢氏のリポート「キャリアアップ助成金が「年収の壁」解消策なのか?」(9月19日付)は、まだ政府案の新聞報道の段階(2023年7月5日付日本経済新聞)を元にした分析だ。
政府案のグラフ【図表1】を示しながら、「年収106万円未満でチマチマ働かず、思い切って壁を一挙に乗り越えよ」というのが政府の発想だろう、と指摘した。そして、3つの点で疑問が残るという。整理してまとめるとこうだ。
(1)パート主婦のニーズに合致しない、迂遠な経路だ。キャリアアップ助成金は、企業が申請手続きをし、認められれば企業に助成される。家計に給付されるものではない。年収の壁の解消策としてパート主婦に認知されるが疑問だ。
(2)パート主婦は、「年収の壁」解消のために、キャリアアップ助成金が想定する正社員、あるいは正社員に近い働き方になることを望んでいるだろうか。パートのままのほうがよいという人も多いだろう。
(3)人それぞれ異なる、現在のおカネと将来のおカネの重みの違いがある。パート主婦の中には、子どもが手を離れた老後より、教育費や住宅ローン返済がのしかかる、今まさにおカネが必要な人が多い。(正社員の働き方である)「老後の保障が充実!」と言われても、魅力を感じない人もいる。将来の1万円より今の1万円なのだ。
そして、西沢氏はこう結んでいる。
「年収の壁は、一朝一夕には解決出来ない。厚生年金保険の適用・非適用に関し、基準が不明瞭な現状を是正すべく、国から明確な基準を示すなど当面の課題を確実にこなしつつ、制度再構築に向けた議論に着手するダブルトラックが求められる」
「壁を超えたら損」思い込みで調整する人も...メディアの役割が重大
一方、パートなどで働く人々も、実際はそれほど「損」はしないのに、「年収の壁」を過剰に意識している面もあるのではないか、と指摘するのは独立行政法人経済産業研究所ファカルティフェローの近藤絢子氏だ。
近藤氏はリポート「「年収の壁」問題の視点 「103万円の壁」過剰に意識」(9月22日付)のなかで、配偶者のいる女性の税引き前の給与収入の分布のグラフ【図表2】を掲載した。
【図表2】のうち、左図は、年収800万円までの範囲を10万円刻みで示したもの。左図の縦の点線で挟まれた50万?200万円のピーク周辺を拡大したのが右図だ。
これを見ると、96万円が突出していることを除けば、103万円がピークで、103万円を超えると一気に減る。明確な壁があるのは、103万円と130万円だ。
近藤氏はこう指摘する。
「興味深いのは、103万円の壁が130万円の壁よりも際立つ点だ。103万円付近で本人にかかる住民税と所得税、さらに夫の配偶者特別控除が減額された場合の負担増を合算しても年額2万円程度の負担であり、130万円を超えた場合にかかる社会保険料が年額約30万円であるのに比べるとかなり小さい。にもかかわらず、明らかに103万円の壁のほうが目立つ」
なぜ、「103万円の壁」を意識する人が多いのか。
「考えうる要因の1つに、夫の勤め先から出る家族手当がある。2021年時点で従業員50人以上の民間企業の2割強が、配偶者手当の対象となる年収上限を103万円に設定している。
ただし、労働政策研究・研修機構が2016年に実施した調査では、パートタイム労働者が就労調整を行う理由として家族手当を挙げた人は、配偶者の所得控除や自身の所得税を挙げた人の3分の1程度だ。
103万円以下に調整している人たちは『所得税課税対象となる』『配偶者控除の対象でなくなる』といった言葉の印象に左右されているのかもしれない。所得税はごく少額であり、配偶者控除から配偶者特別控除と名称が変わっても控除額は減らないことなど、正しい情報を周知するだけでも103万円を超えて働く人が増える可能性がある」
そして、近藤氏はこう提言している。
「税や社会保険の仕組みは複雑なので、実際の負担額を正確に理解せず、『103万円の壁を超えたら損』との思い込みだけで、就労調整がなされている面も無視できないのではないか。メディアが正しい情報を伝えることも就労調整問題の緩和につながると考えられる」
(福田和郎)