あの頃、ダウンタウンの二人は、「ほんの少し先のほうに光が確実に見えているのに、いくら手を伸ばしても届かない」という状態でした――。今回は、ダウンタウンを見出し、活躍の場をつくり、ともに歩みつづけた吉本興業のトップ(大崎洋社長)がはじめて語った「生きづらさ」の処方箋を紹介します。
『居場所。』(大﨑洋著)サンマーク出版
視聴率で、勝った負けた
東京の芸能界は、競争の世界そのものでした。当時の芸能界のヒエラルキーは「俳優、歌手、お笑い」の順で、さらにお笑いにもヒエラルキーが存在し、「喜劇役者 落語家、漫才師」の序列だった、と大崎さんは言います。
「僕は、最下層の『漫才師』のマネージャーです。大阪から来た『興業』なんてヤクザみたいな名前の会社とバカにされていました。紳助・竜介でさえ、大部屋の楽屋は与えられずトイレで着替えたりしていましたからひどい話です。快適な個室が用意され、テレビスタッフが挨拶に来てくれる今から思えば、隔世の感があります」(大崎さん)
「芸人の心意気は半端なく、僕は現場でプライドも守らなければなりません。失礼な扱いをされたら抗議するのも仕事。本心はおさえ込み、テレビ局から理不尽な要求があれば跳ね返しました。自分から勝負を挑まなくても、相手から怒鳴られる、たくさんのディレクターやスタッフに取り囲まれて喧嘩を売られるのも日常茶飯事です」(同)
コンプレックスはすべて排除したそうです。「喧嘩を売られれば、必ず買った」と大崎さんは言います。
「お笑いブームが急速に盛り上がる中、吉本芸人たちはダブルブッキングところかトリプルブッキング、フォースブッキングもざらでした。生放送に遅れたり、収録の途中で他のテレビ局へ走り込んだりということもしょっちゅうで、全部のケツを拭くのは現場マネージャーの僕でした」(大崎さん)
「『オープニングにちょっと顔を出しただけで、他局に走ってくなんて何事だ!』『どんなスケジュール管理してるんだよ』と現場ディレクターに胸ぐらをつかまれ騒ぎになるのも毎度のことでした。こんな具合に毎日走り回っているうちに、僕にも少しずつ人脈ができ、何より吉本芸人たちはレギュラー番組を何本も持つ人気者になっていきました」(同)