大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災から100年。震災当日、東京の帝国ホテルでは新本館(ライト館)の落成披露宴が開催されることになっていた。
ホテルは損傷もなく、被災者への支援拠点となり、「関東大震災でも無事だったホテル」として名声を高めた。
本書「帝国ホテルと日本の近代」(原書房)は、ライト館が完成するまでの過程を追ったノンフィクションである。外資系ラグジュアリーホテルの開業が相次ぐ今、帝国ホテルの歴史を振り返り、将来を展望するのは意義深いことだろう。
「帝国ホテルと日本の近代」(永宮和著)原書房
著者の永宮和さんは、ノンフィクションライター、ホテル産業ジャーナリスト。海外旅行専門誌編集、ホテル・レストラン専門誌副編集長を経て独立。著書に「『築地ホテル館』物語」などがある。
オール電化で、関東大震災の火事を乗り切る
震災当時の支配人で、後に社長になった犬丸徹三の著書「ホテルと共に七十年」から以下のように引用している。
「大地が大揺れに揺れ、建物は突き上げられ、突き下げられ、前後左右に揺れる。(中略)ところが料理場は、料理人たちが全員逃げ出したらしく、人影一つ見当たらない。そして一隅には電気炉があかあかと燃え、その上に油を入れた大鍋が乗せられたまま放置してある。しかもその床上には油滴が点々とこぼれて、それが盛んに小さな火焔を上げているではないか。危ない。鍋に火が入ったならば、爆発を起こして万事休すのである」
スイッチを切っても電気炉は燃え続けているため、犬丸は変電室に走り、メイン・スイッチを切るように命じ、ことなきを得た。設計者のフランク・ロイド・ライトが導入したオール電化策が奏功したのだ。
昔は日比谷入江だった軟弱地盤に対処するため、初代本館では躯体を木造とし、レンガを補助的に使う大幅軽量化で乗り切った。
新本館建設にあたり、ライトが採用した基礎工法が「フローティングファウンデーション(浮き基礎)」というものだった。短い木杭(腐りにくい松)を濃い密度で地盤に打ち込み、その上に鉄筋コンクリートの基礎をつくった。
建築自体にも柔軟性を持たせるため、建物全体を10のブロックに分割してジョイントでつなぎ、地震の破壊力を分散させた。
ライトは自伝のなかで、設計の最初からそうしたシステムを地震対策として盛り込んでおいたと力説している。しかし、建築史家たちが疑問を投げかけているという。あくまで軟弱地盤対策として採用されたものが、結果的に巨大地震のパワーを逃すことにつながったと考えるからだ。
官民一体による国策事業として始まった
ところで、皇居や日比谷公園に近い都心の一等地になぜ、帝国ホテルは建っているのだろう。その数奇な歴史を本書からコンパクトにまとめると、以下のようになる。
明治20年(1887)、外務大臣の井上馨は、実業界のリーダー渋沢栄一に、欧米の賓客が止宿できる立派なホテルをつくるので、その会社設立の旗振り役を依頼した。
外務省は議事堂、裁判所、諸官庁、中央駅など首都機能を皇居の東南側に集中させる「官庁集中計画」構想を立て、迎賓のためのホテル開設も組み込まれていた。
これには本来、土木行政などをつかさどる内務省が反対。鉄道とホテルという社会インフラの整備計画だけが進むことになった。
同年、会社創立願書が提出される。渋沢栄一、大倉喜八郎、浅野総一郎、岩崎弥之助ら明治財界のリーダー11人のほか、宮内省も出資。官民一体による国策事業だった。
用地は、外務省用地のうちの4201坪。50年間、地代無料で借用する契約を政府と交わした。ところが着工から8か月後に、工事はいきなり中止となる。ドイツ人技師が設計した総レンガ造建築が軟弱地盤に耐えられないという判断によるものだった。設計は白紙撤回された。
代わりに選ばれたのが、日本人建築家、渡辺譲。木骨レンガ造だが、主たる構造材は木材だった。この初代本館は、現在の本館の場所ではなく、帝国ホテルタワーが建つ場所に北側を正面として建っていた。ネオ・ルネッサンス様式の外観で、正門のすぐまえには外堀が水をたたえ、水面にホテルの優美な姿が映ったという。
明治23年11月3日、ついに開業するが、最初の6か月間は、宿泊客が月間100人に満たず、平均客室稼働率は3%程度という悲惨な有様だったという。
この頃、一般の外国人は居留地からの出入りが制限されていて旅行も自由にできなかった。明治32年に治外法権と外国人居留地制度が撤廃され、ようやく訪日観光旅行も増え始めた。
さて、日本人として初の支配人となった林愛作はニューヨーク時代からの友人だったライトに大正2年、新本館の設計を依頼するが、これが実に難儀なことの始まりとなった。
総工費約130万円、工期2年はまったく守られず、着工時に250万円となり、最終的には900万円に膨らんだという説が最有力だという。
新本館の用地は本館に隣接する内務省用地で、この交渉の遅れもあったが、何度もの工期延長。「いったいライト氏は建築家なのか、それとも芸術家なのか」といった疑問がうずまく中、ライトは工事を放棄して、突然帰国。帝国ホテルの社史でもその理由は判然としていない、としている。
10年の紆余曲折を経て完成したライト館だが、戦後の宿泊需要の増加には、新館に続く第二新館でも対応できず、建て替えが計画される。反対運動、保存運動もあったが、昭和42年(1967)営業を終えた。
解体され一部は愛知県犬山市の博物館明治村に移築されたが、いま目にするライト館の多くの部分は、巧妙に精緻に模造されたものだという。材料の劣化が激しかったからだ。
最後に、帝国ホテルの今後の建設計画についてふれている。一昨年(2021)、新本館および新タワー館の計画を発表した。明治の初代から数えて4代目となる新本館は令和18年(2036)に開業する予定だ。
まずタワー館を令和6~12年度の期間で建て替え、続いて本館を令和13~18年度で立て替える。帝国ホテルの最大株主である三井不動産をはじめ10社による一帯の再開発計画と連動する。
新本館はあくまでホテル単独棟として建てることを著者は評価している。ライト館完成前年の初代本館の火災による消失など、数々の危機を乗り越え、「新たな世紀をまた乗り切っていくだけの強いDNAが宿っているのだと想像する」と記している。(渡辺淳悦)
「帝国ホテルと日本の近代」
永宮和著
原書房
2420円(税込)