戦後78年、日本の「航空機産業」の軌跡から見えてくる...世界をリードした中島飛行機を受け継ぐ、スバルの思い

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   SUBARU(スバル)は2023年8月3日と7日、同社の航空宇宙カンパニー宇都宮製作所(栃木県宇都宮市)と同半田工場(愛知県半田市)で、大型旅客機「ボーイング777」の製造・出荷30周年の記念式典を行った。

   8月7日には、スバルが開発・製造した陸上自衛隊向け多用途ヘリコプター「UH-1J」の累計700機目となる機体定期修理を宇都宮製作所で行ったと発表した。

   メディアではそこまで大きく取り扱われなかったが、8月に相次いだスバルのイベントは何を意味しているのか。

  • 日本の「航空機産業」のこれまでとは(写真はイメージ)
    日本の「航空機産業」のこれまでとは(写真はイメージ)
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ボーイング社の旅客機で、センターウイングなど主要部品を手掛けるスバル

   あまり知られていないが、スバルは1973年に米ボーイング社の旅客機生産事業に参画して以来、センターウイング(中央翼)など主要部品を開発し、納入している。

   中央翼とは、航空機の左右主翼と前後胴体をつなぎ荷重を支える機体構造の主要部品だ。

   スバルの半田工場は、ボーイング777の中央翼を生産する専用工場として1993年に稼働。「これまでボーイング787、ボーイング777Xなど5機種の中央翼を製造・出荷し、累計出荷機数は3000機を超える」という。

   つまり、私たちが国内線や国際線で利用するボーイング777や787型機の中央翼の多くはスバル製というわけだ。

   同様に日本の航空機メーカーでは、三菱重工業がボーイング787の主翼、777の後部胴体、尾胴、出入口ドアなどを開発し納入。川崎重工業が787の前部胴体、主脚格納部、主翼固定後縁を開発し納めている。

   さらにIHIが、ボーイング社のジェットエンジン開発に参画。三菱重工や川崎重工、スバルなどとともにボーイング社の主要なサプライヤー(部品供給会社)となっている。

   その中でスバル(当時は富士重工業)は2003年3月、ボーイング社から「ボーイング・サプライヤー・オブ・ザ・イヤー賞」を日本企業として初めて受賞もしている。

   同賞はボーイング社の民間・軍用機、宇宙など全部門にわたる世界66か国1万1300社のサプライヤーの中から、高い品質の製品やサービスを提供しているサプライヤーを選び、表彰するものだ。富士重工は「大型構造分野(Major Structures)」部門の受賞だった。

前身は、世界有数の航空機メーカー・中島飛行機 現在は、小型民間機の自社開発から撤退...飛行機部門の影は薄く

   スバルの前身は1917年創設の飛行機研究所、後の中島飛行機だ。

   中島飛行機は第2次世界大戦中に「隼」や「ゼロ戦」などの戦闘機を開発・生産した世界有数の航空機メーカーだった。ゼロ戦は機体が三菱製だったが、エンジンは中島製だった。

   中島飛行機は1945年8月15日の終戦で飛行機の生産ができなくなり、翌16日に富士産業に社名変更したが、財閥解体で戦後12社に分裂した。

   このうちの5社が母体となって、1953年7月15日に発足したのが富士重工業だ。しかし、現在のスバルは売上高の約97%を自動車が占め、航空宇宙部門は約3%にすぎない。

   1968年にスバルはアクロバットもこなす高性能の軽飛行機「エアロスバル(富士FA200)」を開発・量産した。だが、販売は振るわず1986年に生産を終了。1977年には米国メーカーと双発プロペラの小型ビジネス機「富士FA300」を共同開発したが、こちらも商業的には成功しなかった。

   自動車メーカーのホンダがビジネスジェット機「ホンダジェット」を1986年から自社開発し、2016年から世界で販売しているのとは対照的に、スバルはFA300を最後に小型民間機の自社開発から手を引いてしまった。

   技術力だけでは民間機のビジネスが成り立たないことから、当時、富士重工のメインバンクだった日本興業銀行(現みずほ銀行)が航空機の自社開発に反対したとされる。

   このため、スバルの航空機部門にかつてのような存在感は感じられない。

   現在は自衛隊機の開発・生産を除けば、民間機は事実上ボーイングなど海外メーカーの下請けとなっているのが現状だ。

   それは、かつて中島飛行機のライバルだった三菱重工も同様だ。

   同社は国産初のジェット旅客機を目指し、子会社の三菱航空機が「スペースジェット」(旧MRJ)の開発に挑んだが、海外メーカーとの競争に勝てず、撤退したのは記憶に新しい。

三菱重工にもできなかった民間機のビジネス、ホンダが成功させる

   日本の航空機産業は戦後しばらく開発と生産ができなかったことで、当時の航空エンジニアがトヨタ、日産、ホンダなど自動車メーカーに流れ、戦後の復興と高度成長を支えたといわれる。

   戦後の「YS-11」以降、スペースジェットまで民間旅客機の開発が進まなかったのは、戦後の空白期が長く、競争力を失ったからだと指摘される。

   そんな中、小型機のホンダジェットは戦後の日本の航空機産業で唯一、商業的に成功した事例だろう。

   スバルはもちろん、三菱重工にもできなかった民間機のビジネスをホンダが成功させたのは奇跡に近い。航空機の経験がなくても、ホンダには夢を実現するだけの技術力とブランド力があったということだろう。

   思えば、終戦記念日を迎えた8月は中島飛行機が消滅した月であり、日本にとって航空機の開発・生産ができなくなった歴史的な月だ。

   そんな因縁の8月に、スバルがボーイング777の製造・出荷30周年と陸上自衛隊のヘリコプターUH-1Jの記念式典を行ったのは偶然だとは筆者には思えない。ホンダと立場が逆転したように見えるスバルだが、航空機製造に対する思いは今も強いのだろう。

   8月は戦後78年の日本の自動車産業と航空機産業の歴史を振り返り、今後に思いをはせるには絶好の機会なのかもしれない。(ジャーナリスト 岩城諒)

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