戦後78年、日本の「航空機産業」の軌跡から見えてくる...世界をリードした中島飛行機を受け継ぐ、スバルの思い

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前身は、世界有数の航空機メーカー・中島飛行機 現在は、小型民間機の自社開発から撤退...飛行機部門の影は薄く

   スバルの前身は1917年創設の飛行機研究所、後の中島飛行機だ。

   中島飛行機は第2次世界大戦中に「隼」や「ゼロ戦」などの戦闘機を開発・生産した世界有数の航空機メーカーだった。ゼロ戦は機体が三菱製だったが、エンジンは中島製だった。

   中島飛行機は1945年8月15日の終戦で飛行機の生産ができなくなり、翌16日に富士産業に社名変更したが、財閥解体で戦後12社に分裂した。

   このうちの5社が母体となって、1953年7月15日に発足したのが富士重工業だ。しかし、現在のスバルは売上高の約97%を自動車が占め、航空宇宙部門は約3%にすぎない。

   1968年にスバルはアクロバットもこなす高性能の軽飛行機「エアロスバル(富士FA200)」を開発・量産した。だが、販売は振るわず1986年に生産を終了。1977年には米国メーカーと双発プロペラの小型ビジネス機「富士FA300」を共同開発したが、こちらも商業的には成功しなかった。

   自動車メーカーのホンダがビジネスジェット機「ホンダジェット」を1986年から自社開発し、2016年から世界で販売しているのとは対照的に、スバルはFA300を最後に小型民間機の自社開発から手を引いてしまった。

   技術力だけでは民間機のビジネスが成り立たないことから、当時、富士重工のメインバンクだった日本興業銀行(現みずほ銀行)が航空機の自社開発に反対したとされる。

   このため、スバルの航空機部門にかつてのような存在感は感じられない。

   現在は自衛隊機の開発・生産を除けば、民間機は事実上ボーイングなど海外メーカーの下請けとなっているのが現状だ。

   それは、かつて中島飛行機のライバルだった三菱重工も同様だ。

   同社は国産初のジェット旅客機を目指し、子会社の三菱航空機が「スペースジェット」(旧MRJ)の開発に挑んだが、海外メーカーとの競争に勝てず、撤退したのは記憶に新しい。

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