東京電力が2023年8月24日午後1時、福島第一原発の処理水の海への放出を始めた途端、それを見届けたかのように中国政府は、日本産の水産物の輸入を同日から全面的に停止すると発表した。
全国の漁業関係者はもちろん、日本政府にとっても「想定外」のショックだった。福島から遠く離れた鹿児島、福岡などの水産業者の元に中国や香港から取引キャンセルの連絡が入った。
日本の漁業は、そして日本経済はどうなるのか。中国の狙いは何か。専門家の分析から読み解くと――。
処理水放出で中国国民パニック、食塩「爆買い」に走る
報道をまとめると、中国外務省の報道官は8月24日の記者会見で、日本の処理水放出について、「生態環境の破壊者であり、海洋環境の汚染者だ。断固たる反対と強烈な批判を示す」と非難した。
その後、中国税関当局が「福島の『核汚染水』が食品の安全に対してもたらす危険を全面的に防ぐため」として、日本を原産地とする水産物の輸入を全面的に停止すると発表した。
中国は原発事故後、福島、宮城、東京など10都県からの水産物の輸入を禁止してきた。今回、それが全国に拡大されたかたちだ。中国は日本にとって水産物の最大の輸出先で、中国・香港向けの合計が、2022年度実績で約42%に達する。日本の漁業に甚大な影響が出ることは避けられない。
また、中国外務省は「食の安全と中国人民の健康を守るため、あらゆる必要な措置をとる」との談話を発表した。これは、水産物以外の日本産食品にも、新たな輸入規制を導入する可能性を示唆したと受け止められている。
実際、ロイター通信(8月24日付)によると、処理水の海洋放出が始まった8月24日、中国のスーパーやネット通販では食塩を「爆買い」する人が急増、売り切れになる事態が続出し、当局が冷静な対応を求めたほどだ。
中国国民の「食の安全」を巡る不安が、水産物にとどまらず、海水を原料に作られる食塩にも波及したかたちだ。
今回の中国政府による全水産物禁輸措置、岸田文雄政権にとっては「想定外」の事態だったようだ。朝日新聞(8月25日付)によると、日本政府内では「中国が何かやってくるとは思っていたが、ここまでは予想していなかった」(農林水産省幹部)という驚きが広がったそうだ。
中国がすでに実施している水産物の放射能検査という規制に加えて、「さらに不買運動をしてくるかもしれない」(首相官邸幹部)という相場観が語られていたという。ずいぶん甘い想定だったわけだ。
「外交の岸田」の面目丸つぶれ、安全性を中国語で発信せよ
今回の事態、専門家はどう見ているのか。
ヤフーニュースコメント欄では、岸田政権の「甘い見通し」について、法政大学大学院の白鳥浩教授(現代政治分析)がこう批判した。
「『外交の岸田』の面目丸つぶれといったところだろう。こうした処理水の海洋放出は、すでに日本政府の既定路線として、いつか行うことは決まっていたはずだ。こうした最悪の事態は回避できたはずだ。自分が首相の時に放出するということを岸田氏が決定したというのであれば、国内の関係者のみならず、国際的にも諸外国に対する説明を尽くすということを第一に考えなければ、その放出を許す国内、国際環境はできない」
と説明。そのうえで、
「そうした国内、国際環境の整備を、岸田首相は整えられていたのだろうか?風評被害が第一に影響するであろう、漁業関係者からの理解もなく、さらに放出できる国際環境も整備できなかったとすれば、この海洋放出自体、岸田首相の政策的な責任が問われるものとなる。どのように岸田首相が責任をとるのか、それは行動でしか示せない。被害への補償なども早急に行う必要がある」
と訴えた。
日本の食材は世界人気、あらゆる国に販路を広げよう
一方、同欄では中国国民にも理解してほしい、その処理水の「安全性」について、岡本孝司東京大学教授(原子力学専攻)がこう解説した。
「今回放出された、薄められたALPS処理水のトリチウム濃度は100ベクレル/リットル以下でした。直ちに拡散しますので、もともと海水に含まれているトリチウムの濃度(0.1~1ベクレル/リットル)と同じになります。東京電力や環境省など、様々な機関でモニタリングを強化していますので、これらの結果がどんどん公開されていくと思います。
科学的にはまったく影響がありませんが、まったく影響がない事をモニタリングで確実に確認していくということになります。なお、我々の身の回りにも、トリチウムは存在しています。例えば雨にも0.1~1ベクレル/リットルのトリチウムが含まれています。また、トリチウム以外の放射性物質については、2か月以上の期間をかけて、すでにチェック済みです。法令で決められている値よりも十分に小さい値です。これらの情報は、ホームページで公開され、随時更新されていきます。『処理水ポータル』をぜひ参照ください」
そう呼びかけた。
ただ、処理水問題を「対日外交カード」に使う中国政府に処理水の安全性を訴えても、通用しない点がやっかいなところだ。
そこで、同欄では日本総合研究所チーフエコノミストの石川智久氏が、中国以外の国々への市場開拓を訴えた。
「確かに、中国は人口も多いものの、貿易を外交カードに使う中では、安心して貿易できる状況とは言い難くなっています。こうした中では、日本の農業輸出においては、輸出先を多角化することが重要と言えます。日本の食材は、今や世界で人気であり、世界全体を市場に出来ると言えます。冷蔵や冷凍技術もレベルアップする中、かなり遠い国や地域にも輸出ができるようになっています」
と解説。そして、
「日本の経済安保の観点からは、中国1国に依存するのではなく、世界全体を貿易相手にすることが重要と言えるでしょう。一方で、中国は人口が多いために、農産物を自給できない状況になっています。貿易を外交カードにすることは、逆に中国の食料安保を損ない、中国にとってデメリットであることを認識する必要があります」
と今回の措置は中国にとってもマイナスだとした。
米中対立に巻き込まれ、中国の報復が半導体に広がるのが怖い
一方、水産業への打撃は小さくないが、輸出停止が1年間続いてもGDP(国内総生産)の押し下げ効果は0.17%にすぎない。今後、日本経済全体に大きな影響を与える可能性があるのは、中国の対日貿易規制措置の対象が他の分野へと広がる場合だと指摘するのは、野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏だ。
木内氏のリポート「中国による日本の水産物輸入停止の経済的打撃は大きくないが、貿易規制のエスカレーションに注意」によると、米国は、中国に対する先端半導体に関する輸出規制を昨年(2022年)10月に始めた。
米国からの求めに応じて、日本やオランダは先端半導体製造装置の輸出規制で米国に足並みを揃えた。その報復措置として、中国政府は8月1日から半導体の材料となるレアメタル(希少金属)などの関連製品の輸出規制を始めている。
さらに、米バイデン政権は8月9日、対中投資規制の大統領令を発表した。米国の資金が中国の軍事力強化に利用されることを避けるための措置で、日本を含めた他の先進国にも同様の措置を要請する方針だ。
木内氏は、日本が米中対立に巻き込まれて、米国に同調する危険性をこう指摘する。
「日本が投資規制でも米国に同調する場合、中国は日本も意識した輸出規制の報復措置を検討する可能性があるだろう。そして、中国政府はレアアース(希土類)や特定の鉱物の輸出規制で報復する可能性がある。
その場合には、日本経済にとっては大きな打撃となることは避けられない。このようなリスクも踏まえると、政府は、処理水放出を受けた中国との関係悪化だけでなく、対中投資輸出規制で米国との連携のあり方についても慎重に検討していく必要があるだろう」
(福田和郎)