大学のキャンパス...2002年の「工場等制限法」廃止から、郊外→都心回帰 近年は「地方創生」で一転、23区の定員増を原則禁止
大学の都心集中の是正は、古くて新しいテーマだ。政策もコロコロ変わってきた経緯がある。
もともと大学など高等教育機関は人が集まりやすく、研究もしやすい都心部に多くあったが、1959年に「工場等制限法」が成立し、流れが逆転した。高度経済成長によって都市に工場などの大規模な建物が林立し、人口が過度に集中するのを是正するためだ。
「工場」と銘打ってはいるが、「首都圏及び近畿圏の既成都市区域において制限施設の新設、増設をしてはならない」というもので、一定面積以上の床面積を持つ大学も該当することから、都市部での大学の新増設が規制された。
折しも、戦後のベビーブームで大学生の増加が予想されており、都市部でのキャンパスが拡張できなくなった大学では、1、2年の「教養課程」や一部の学部を郊外に移すなどの対応がおこなわれた。
たとえば、中央大が東京・八王子、東洋大が埼玉・朝霞、青山学院が神奈川・厚木、同志社大が京田辺などに、新キャンパスを開いた。その後の大学制度の弾力化・柔軟化で新しい学部新設が広がり、早稲田大の人間科学部(埼玉・所沢)、慶応大の総合政策学部、環境情報学部(神奈川・藤沢)などが郊外の広いキャンパスに新設された。
ところが、産業構造の変化で工場は海外に次々移転していったことから、2002年に工場等制限法が廃止された。大学も都心回帰が始まった。東洋大が白山、青学大が青山に文系学部を集約したほか、東京理科大が経営学部を神楽坂に、中央大が法学部を茗荷谷に、というように、主要学部、看板学部を都心に戻す動きが加速した。
だが、人口は減少に転じ、地方の過疎化の深刻化を背景に、「地方創生」「一極集中是正」を旗印に、最初に紹介した東京23区の入学定員の増加が禁じられてきた。