「日の丸ジェット」の夢はついえた。
三菱重工業が取り組んでいた国産初のジェット旅客機「スペースジェット(旧MRJ)」の開発から撤退したと表明した。
商用運航に必要な「型式証明(TC)」の取得に手こずり、新型コロナウイルス禍の市場の混乱も重なって2020年10月に開発を凍結していたが、再開しても採算が合わないと判断したという。国費も投入して官民一体で取り組んできたプロジェクトは、なぜ挫折したのか。
開発には累計1兆円 西村康稔経済産業相「極めて残念であり、重く受け止める」
J-CASTニュースはMRJ初飛行に成功した2015年に「『国産MRJ』を待ち受ける国際競争の相手 小型航空機は自動車に次ぐ『産業』になるのか」(2015年11月30日付)、テコ入れに動いた2018年に「三菱重工の『先の見えない戦い』 MRJ開発への支援に潜むリスク」(2018年11月18日付)、さらに起死回生を狙って社名変更(MRJからスペースジェット)した2019年に「三菱航空機『MRJ改名』の計算 新生スペースジェットは、アメリカの空を翔けられるか」(2019年06月23日付)など、折に触れ報じてきた。
開発を凍結した2020年には「三菱スペースジェットが再び『飛び立つ』日は来るのか 威信かけた『国家プロジェクト』の失墜」(2020年11月15日付)で、「スペースジェットの視界は、容易に開けそうにない」と、悲観的な見通しを書いた。
今回、こうした流れの延長上で、ある意味「予定通り」に、開発に正式に終止符を打ったかたちだ。
「多くの皆さんから期待や支援をいただいたが中止の判断にいたり、大変残念だ」
累計1兆円ともいわれる巨費を投じてきた国産ジェット開発からの撤退を発表した2023年2月7日の記者会見で、三菱重工の泉沢清次社長はそう語った。
事業にはこれまで約500億円の公金も投入されており、西村康稔経済産業相は同日、記者団の取材に「国産旅客機の商業運航という当初の目的を達成できなかったことは極めて残念であり、重く受け止める」と、無念の表情を見せた。
スペースジェットのプロジェクトは、2008年3月に本格的に着手。当初は2013年に全日本空輸(ANA)への初号機納入を予定していた。しかし、欧米の安全基準を満たすため次々と設計変更などを余儀なくされ、納期は繰り返し延期された。
15年11月に名古屋空港から初飛行に成功し、16年10月には米国で試験飛行を開始したが、その後も設計変更などが相次いだ。最新の設計を反映させた試験機が2020年1月に完成したが、翌2月に6度目の納期延期に追い込まれた。
三菱重工・泉沢清次社長「技術を事業にするための十分な準備、知見が足りなかった」
プロペラ旅客機「YS11」が1973年に生産を停止して以来の国産旅客機を復活させようというのが、「日の丸ジェット」の事業だった。
航空機は自動車の数倍になる100万点単位の部品を使い、関連産業の裾野が広く、産業振興、技術力強化の点から、日本の経済の体力強化に貢献するものとして期待されていた。
前述のように、国はこれまで約500億円を投じて、先進操縦システムや機体の軽量化につながる炭素繊維材料の技術開発などを支援してきた。事業スタートにかかわった金融関係者は「通産省(現経産省)が音頭を取った」と語るように、事実上の「国策」とも言えるものだった。
三菱重工にとっても長年の夢だった。
明治時代から、旧財閥の中でも国につかず離れず、突出しないが国策にはついていくのが三菱の伝統。加えて、三菱重工は戦前の「ゼロ戦」に代表されるように、技術力には自負があった。
だが、今回は、その技術への自信があだになった。
2015年に初飛行が成功して以降、約3900時間の試験飛行を重ね、機体の完成度を高める努力を続けてきた。「技術がなければ、試験飛行はできなかった。ただ、その技術を事業にするための十分な準備、知見が足りなかった」と、泉沢社長は悔しそうな表情を見せる。
商業飛行に不可欠な「型式証明」が取得できず コロナ禍も打撃 開発再開なら数千億円
「知見不足」とは、商業飛行に不可欠な型式証明(TC)の取得のことだ。
TCとは、機体の設計が安全性基準に適合することを国が審査・確認する「お墨付き」である。世界を飛ぶジェットを目指す以上、実質的に米連邦航空局(FAA)のTCを取得しなければならない。実際には、さまざまな角度からの疑問に対し、FAAの納得する回答を示す必要がある。
TC獲得には、単にいいものを作るというだけではすまない、一定のノウハウが必要ということだ。そのために三菱重工は2018年、外国人エンジニアを機体開発の責任者として迎えたが、日本人技術者との連携がうまくいかなかったといわれる。
それでも、安全システムを抜本的に見直し、20年1月に改良した試験機を完成させた。だが、そこにコロナ禍が起き、米国に試験機を送ることさえできなくなった。20年秋、三菱重工は開発の凍結を決めた。
今から開発を再開すると、なお数千億円が必要とされ、中断で去った開発から営業までの幅広い人材を再度集めるのも容易ではない。また、開発の長期化で技術的にも「最新鋭」とは言えなくなっている。かくて、撤退を決断する以外に道は残っていなかった。
新聞各紙も社説で追及 朝日「(経産省には)失敗を検証し、責任の所在を明らかにする姿勢は見られない」
大手紙各紙はこぞって社説で取り上げた。
ほぼ共通して指摘しているのは、三菱重工の技術力への過信、それもあっての対応の遅れ、社内体制の不備だ。
日本経済新聞(23年2月8日)は「日本の産業史に残る失敗と言える。約500億円もの国費もつぎ込まれた大型プロジェクトである。......経営責任が問われるのは言うまでもない」と断じ、毎日新聞(2月22日)は「開発の難航を受けて、海外メーカーで型式証明の取得に携わった外国人を責任者に据えたが、あまりにも遅い対応だった。......開発子会社の社長は何度も交代した。現場と経営陣の意思疎通が不十分だったのは明らかだ」などと具体的に指摘している。
経産省の責任にも多くの社説が言及し、朝日新聞(2月14日)は「失敗を検証し、責任の所在を明らかにする姿勢は見られない。それどころか経産省は半導体産業に巨費を投じるなど、補助金の規模を拡大している。官庁には、有望な技術を見極める能力が欠けているという自覚が求められる」と書いた。
「日の丸ジェット」の挫折は、一民間企業の失敗であるのはもちろん、経産省の産業政策にも改めて大きな疑問符を付けた。(ジャーナリスト 済田経夫)