「黒田路線」の継承を前面に出して、サプライズこそなかったが、日本銀行改革への静かな闘志を端々に垣間見せたようだ。
日本銀行の次期総裁候補の植田和男氏(71)が2023年2月24日、国会で所信聴取に臨んだ。戦後初の学者出身の日銀総裁となるだけに、国会答弁が1つの課題との見方があったが、2時間45分の質疑応答の間、鋭い質問にも詰まることなく乗り切った。
とりあえず金融緩和の継続を打ち出したことで、市場も安心し、株価の変動はなかったが、「植田日銀」はこれからの日本経済にどんな影響を与えるのか。エコノミストの分析を読み解くと――。
「私の使命は、魔法のような金融政策を行なうことではない」
衆議院公式サイトの「衆議院TVインターネット審議中継」や、報道をまとめると、植田和男氏は国会の恒例になっている、事前に質問内容を答弁者に知らせる「質問通告」を「いらない」と議員側に伝えてきたそうで、6党6人との質疑応答ではほとんど紙を見ないで答えていた。
主な発言のポイントは次のとおりだ。
「日本銀行が現在行っている金融政策は適切である。金融緩和を継続し、企業が賃上げできる環境を整えたい」
「政府・日本銀行が2013年の共同声明の中で掲げている目標の2%の物価を持続的に達成するには、なお時間がかかる。ただし、良い兆候も表れている」
「したがって、共同声明をただちに見直す必要はない。2%の物価を達成し、賃上げにつなげるのが日銀の使命だ」
「消費者物価が4%を超える現在の物価高は、今がピークであり、来年(2024年)以降2%台に落ち着く」
「政府の財政規律を乱しているという批判があるが、日本銀行が現在行っている大量の国債購入は財政ファイナンス(政府の赤字財政を補うために、政府が発行した国債を中央銀行が引き受けること)ではない。最大の目的は、持続的・安定的な物価目標2%を達成することだ」
「大量の国債購入にはマイナスの副作用もあるため、物価目標2%が見えてきた段階で購入をやめる判断をすることになると思う」
「大規模金融緩和の効果・副作用については就任後に検証していくが、具体的な修正内容については、その時点での経済状況に応じて判断していくので、現時点で述べることを控えたい」
そして、最後に自分が任期5年間に何を成し遂げるかと聞かれ、こう答えたのだった。
「私の使命は、魔法のような金融政策を行なうことではない。物価目標2%のミッションを達成し、金融政策の正常化に踏み出すことだ。2%に到達しなければ、副作用を起こさせないよう、早く判断したい。日銀の役割は、国民に無駄な心配を起こさせずに、自分の所得や家計に注力できるよう、インフラを整えることだ」
質問中の議員からは「よくこの難局で引き受けてくれましたね」(公明・岡本三成氏、国民民主・前原誠司氏)といった声も上がっていた。
経済学者らしく理論に即して分かりやすく、バランスの取れた内容
こうした日本銀行総裁候補・植田和男氏の発言について、エコノミストはどう見ているのだろうか。
日本経済新聞オンライン版(2月24日付)「植田氏『金融緩和を継続』 日銀総裁候補、衆院で所信」という記事につくの「ひとくち解説コーナー」では、日本経済新聞社特任編集委員の滝田洋一記者は、
「まずは金融緩和の継続を表明し、政策の急変への懸念を和らげる。午前のマーケットはそんな植田和男氏の言い回しに安心感を抱いたようです。
副作用を認めつつも、経済・物価の現状を踏まえるなら、現状の政策が適切。そう述べたことは、金融政策の継続性を重視したものと言えましょう」
と、市場に配慮した姿勢を指摘。つづけて、
「異次元緩和からの軌道修正にしても、細心の目配りが大切。出口それ自体を課題とするような立論は、金融政策に必要な柔軟性を欠いているように思われます。速水(優)総裁時代にゼロ金利解除に異を唱えた植田氏は、米国のITバブル崩壊などに目配りしていました。今も経済の安定に大切な総合判断のできる経済学者のはずです」
と、学者らしい持ち味を出したことを評価した。
同欄では、日本経済新聞社上級論説委員/編集委員の菅野幹雄記者も、
「総裁候補として初めて国会に臨んだ植田氏の答弁は有力経済学者らしく、理論に即して分かりやすく、バランスの取れた内容でした。黒田(東彦)現総裁の金融政策の継続を明言しつつ、物価2%目標の安定的達成ならば『出口』に向かう姿勢を明示。金融緩和の副作用も率直に認め、歪みが指摘される長短金利操作の柔軟な見直しにも含みを持たせました」
と、学者らしい分かりやすい説明を評価。その一方で、
「とはいえ、現実にその『2%』にいかに持っていくか。実際の政策でサプライズが起きる可能性を否定しなかったように、憶測が渦巻くマーケットといかに率直に、巧みに渡り合うかが問われます。最後に昼食のコンビニ弁当の値上げについて話していました。庶民の目線で物価安定を説く手腕も磨いてほしいです」
と、市場や政界と渡り合う政治力と、庶民感覚に期待した。
「アベノミクス」安倍派VS「新しい資本主義」岸田首相の板挟みか
ヤフーニュースコメント欄では、三菱UFJリサーチ&コンサルティング主席研究員の小林真一郎氏が、
「今後の金融政策は、景気や金融市場の現状や先行きをにらみつつ進められることになりますが、景気回復の勢いが弱いうえ、海外経済の先行きが不透明であり、賃金上昇率も物価上昇を跳ね返せるほどの強さではないため、政策修正にあたってはタイミング、手段とも慎重に検討されることになりそうです。実際の金融政策の行方は今後の状況次第で大きく変わる可能性がありますが、現時点で確実に指摘できるのは下記の通りの内容です」
として、発言の背景をこう説明した。
「(1)現在の金融緩和策は限界に近付きつつあり、体制を維持していくことは困難である、(2)このため近いうちに修正が必要である、(3)修正するとすれば、方向は緩和ではなく引き締めとなる、(4)ただし、できるだけ金融緩和的な状態を維持するために、そのペースは慎重かつ緩やかに進められていく、(5)したがって、少なくとも企業の設備投資や家計の住宅購入に大きな影響を及ぼすことはない。また、米国の金融政策との関係も無視できません」
内外の経済状況に対する「目配り」が欠かせないと指摘している。
一方、同欄で、法政大学大学院の白鳥浩教授(現代政治分析)が注目したのは、政界との緊張関係だ。
「植田氏の国会の所信聴取において述べたことは重要だ。政治的、そして政策的には、これまでの『アベノミクス』を否定するものではないというところがある。
そのうえで、岸田政権が述べている『新しい資本主義』の中心に躍り出てきた『賃上げ』を実現するために、景気対策を行っていくというものと考えられる」
こう指摘したうえで、
「しかし、岸田政権の政策的な方向性とは必ずしも一致しない、ということは注意すべきである。金融緩和を続け、景気対策を日銀が行っている中で、政府が増税を行うことを検討するというのは、政策的にネガティブな効果を生む可能性がある。この人事は、『アベノミクス』を指示する党内最大派閥の安倍派と、岸田政権の方向性が、必ずしも一致していないことを際立たせていく可能性がある」
と、「植田日銀」の今後の危うさを予想した。
「安全運転」の中に見えた「黒田日銀」への批判と改革路線
「安全運転」にみえる答弁の中にも、今後の政策修正を強く示唆する内容だったと指摘するのは、野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏だ。
木内氏が、リポート「植田新総裁候補の所信聴取:慎重な答弁も現在の政策の問題点を明確に指摘し、政策修正を示唆」(2月24日付)のなかで注目したのは、これまでの日銀の金融政策の効果を明確に否定する発言があったことだ。
「国債買い入れを通じた政策効果については、明確に否定したことだ。国債買い入れを増加させることで金利が低下するのであれば、政策効果を発揮するが、もはや金利低下余地がないことから、国債買い入れを通じた政策効果には期待できないとの趣旨の発言も聞かれた。これは、従来の政策の枠組みを否定するものだ。
さらに、過去10年にわたる異例の金融緩和が期待されたほどの効果を発揮しなかった理由については、金利低下余地が限られていたことを上げた。これらの点から、植田氏は、量的な政策の効果に懐疑的である一方、金利を通じた金融政策についても、その効果に懐疑的であることが読み取れる。
また、実質賃金の上昇を通じて国民生活を改善させる、あるいは潜在成長率を高める生産性上昇の重要性に言及する一方、それは金融政策では対応できないもの、として、金融政策の限界にも触れたのである」
こうしたことから、木内氏は「植田日銀」の今後の政策修正をこう予想する。ポイントを整理すると、次のようになる。
(1)植田氏は、黒田路線を一気にひっくり返すのではなく、YCC(イールドカーブ・コントロール)、資産買入れ策など個々の政策について、効果と副作用を分析したうえで、副作用の軽減に資するような修正を段階的に講じていく。
(2)その中で、マイナス金利政策、YCCが撤廃されていく。それが、植田氏が語る「金融緩和の継続が適当」の真意であり、ゆっくりと時間をかけて、金融政策は大きく修正されていく。
(3)まずは、YCCの大幅な見直しが考えられる。YCCのもとで大量の国債買入れを余儀なくされている現状をすぐに変える必要があり、4月にもYCCの変動幅の上下1%などへの再拡大、あるいは変動幅の撤廃が予想される。
(4)その後、政府との協議を経て、年内に2%の物価目標を中長期に位置付け直す修正が行われる。これが、本格的な金融緩和の枠組みの見直しに道を開くことになる。
ただし、木内氏はこう結んでいる。
「内外経済の減速、米連邦準備制度理事会(FRB)の利下げ観測などを受けて、本格的な金融緩和の枠組み見直しに着手するまでには時間をかけるのではないか。
マイナス金利政策の終了、YCC廃止、オーバーシュート型コミットメント撤廃を踏まえた長期国債の残高削減、ETF(上場投資信託)のオフバランス化などの本格的な政策修正は、2024年半ば以降に、順次着手されていくものと見ておきたい」
(福田和郎)