「ポンド安」「株安」「債券安」の「トリプル安」を招いて、金融市場に大混乱を引き起こしたリズ・トラス氏に代わり、リシ・スナク氏(42)が2022年10月25日、英国の新首相に就任した。
インド系移民の両親をルーツに持つ、英国史上初の非白人首相の誕生だ。スナク氏は就任後、首相官邸前で演説、「経済の安定と信頼を中心に据える。私の政府は次世代に負債を残さない」などと財政規律を重んじる姿勢を示し、ひとまず金融市場に安心感をもたらした。
しかし、前途多難だ。「英国王の2倍」という資産を持ち、「庶民感覚ゼロ」を指摘するメディアもある。英国経済の再生はできるのか。エコノミストの分析を読み解くと――。
妻はインド大富豪の娘、夫妻の資産は約1200億円
英国の新首相に就任したリシ・スナク氏(42)とはどんな人物なのか。
日本メディアでは、インド系の非白人として初の英国首相であることと、20世紀以降最も若いことにスポットが当てられているが、欧州メディアの多くは、エリート街道を驀進した華麗な経歴と、政界人としては異例の大資産家であることに注目が集まっている。
BBCニュース(10月25日付)などの報道によると、スナク氏は1980年、英サウサンプトン生まれ。両親はともにインド系移民で、ケニア生れの父親は総合医、タンザニア生れの母親は薬剤師だった。宗教はヒンドゥー教。
1382年開校の超名門私立男子校ウィンチェスター・カレッジに通い、オックスフォード大学に進み、政財界志望学生が多い「哲学、政治、経済」コースを専攻。米スタンフォード大学に留学、経営学修士(MBA)も取得している。
米留学時に出会ったのが、のちに妻となるアクシャタ・ムルティさん。彼女はインドの大富豪でITサービス大手インフォシスの共同創業者の1人、ナラヤナ・ムルティ氏の娘だ。
スナク氏のキャリアとしては、米金融大手ゴールドマン・サックスやヘッジファンド2社で働き、巨額の財を成した。英国の所得番付を発表している英紙サンデー・タイムズによると、スナク夫妻は長者番付にも名を連ね、夫妻の純資産は計7億3000万ポンド(約1226億円)に達する。
政治家としては、2015年の総選挙で下院議員に初当選。ボリス・ジョンソン政権で財務省の首席政務次官に就任、2020年2月に39歳の若さで財務相に抜てきされた。
タックスヘイブンで「税逃れ」疑惑も
しかし、資産の面でしばしばモラルが問われた。2020年に妻ムルティさんがインドで得ている巨額の収入に対して、英国に所得税を納めていないことが問題視された。それ自体は合法だが、夫・スナク氏の評価が急降下したため、ムルティさんは今年4月、英国で納税すると発表した。
また、英紙インディペンデントに、英領バージン諸島とケイマン諸島のタックスヘイブン信託の2020年の受益者リストにスナク氏の名前が出ていると報じられて、野党・労働党から「税逃れ」として追及を受けている。
このように、「庶民感覚」からかけ離れていることもあって、早くも野党・労働党などから首相としての資質について、追及の火の手があがっているようだ。
AFP通信の記事(10月26日付)によると、労働党のナディア・ウィットム議員がツイッターに、「スナク夫妻は7億3000万ポンドの財産の上に腰を据えている。これはチャールズ国王の推定資産の約2倍だ」「スナク氏が、労働者階級が代償を払うことになる『厳しい決断』を下すと言うときには、このことを思い出そう!」と投稿した、と報じられている。
英国の有権者はとりわけ社会階級に関する問題に敏感だ。同じAFP通信の記事は、スナク氏が高級ブランドであるプラダの靴を履いて、建設現場を視察した写真を掲載し、こう報じたのだった。
「スナク氏が『庶民派』をアピールしようと、10代の頃に実家の薬局を手伝っていたエピソードを頻繁に語っている。だが一方で、売店でカード払いの方法が分からないような様子を見せたり、ガソリンスタンドで自分の所有物ではない車にガソリンを入れている様子を写真に撮らせたり、(中略)失態を演じている」
「モノ言う株主」として日本の原発止めろと主張した過去
「庶民感覚」を知らないと批判されているスナク氏に英国経済の再生ができるのだろうか。エコノミストはどうみているのか。
日本経済新聞オンライン版(10月26日付)「スナク氏『深刻な経済的課題』 英新首相、市場は歓迎」という記事に付くThink欄の「ひと口解説コーナー」では、ニッセイ基礎研究所研究理事の伊藤さゆりさんは、
「財政健全化重視路線への回帰を歓迎する市場。しかし、国民は歓迎一色とはいかないだろう。スナク政権が進めると見られる歳出削減には、10.1%に達したインフレ率に連動するはずの公的年金支給の伸び率を抑えるなど、生活費危機下の英国民に痛みを強いるものも含まれる可能性がある」
と指摘。そのうえで今後の難問は、
「大規模減税策の大部分は撤回されたが、スナク首相が財務相として決めた『国民保険料の引き上げの撤回』はまだ生きたままだ。保険料引き上げは、深刻化する国民医療サービス(NHS)の逼迫緩和のために財源として決めたもの。国民の関心が高いNHSの改善のための財源の問題にどのような道筋をつけるのかも注目している」
と、財政健全化の道筋をどうつけるかにあるとした。
同欄では、日本経済新聞社特任編集委員の滝田洋一記者が、スナク氏と日本との関わりについて触れ、
「スナク氏はリーマン・ショック前に、物言うファンドである『ザ・チルドレンズ・インベストメント・ファンド(TCI)』に属していました。スナク氏がパートナーを務めていた当時、このTCIはリーマン・ショック前にはJパワー(電源開発株式会社)の大株主になって、経営改革を迫りました」
と説明。つづいて、
「株主としての当時の要求は、(1)大間原子力発電所(青森県下北郡大間町)の店じまいや、(2)本州と北海道の送電網の増設の中止でした。これらの策を採用すれば、Jパワーの収益性が向上し株主価値が高まる、と主張したのです。日本側はエネルギー安全保障の観点から、この主張を退けました。英国を含め欧州のエネルギー危機が深刻化するなか、新首相はこのディール(取り引き)の教訓をどう生かすのでしょうか」
と、やや皮肉を込めた。
「巨大な氷塊に向かうタイタニックのよう」
ヤフーニュースのコメント欄では、スナク氏の前途多難ぶりに注目する意見が相次いだ。
同志社大学政策学部の吉田徹教授(比較政治・ヨーロッパ政治)は、
「『棚からぼた餅』式に首相の座を手に入れたスナク氏だが、茨の道を歩むことは必須だ。もともと財政再建論者、さらにインフレ下では緊縮に出ざるを得ず、これは多くの庶民にとってはマイナスに働く。そんな状況になれば、(次期総選挙で)すでに30%ポイントもある労働党との差はますます開いていくことになり、選挙には不利になる。そうすると、では首相を変えるか、という話になるだろが、では誰か有力候補がいるかといえば、そうでもない。火中の栗をあえて拾ったスナク氏がどう窮状を切り抜けるか、注目したい」
と、手腕に期待した。
同欄では、東京大学大学院法学政治学研究科・法学部の遠藤乾教授(国際政治)も、
「2年後の総選挙での勝利は、スナク新首相には荷の重いものだろう。理由は三つある。最大の理由は、今後の経済にある。前任のトラスのように自ら市場を混乱させる愚は犯さないかもしれないが、元々コロナ、ウクライナ、そして何よりBrexit(ブレグジット、EU離脱)の後遺症で他国と比べても厳しい状況にある。(中略)第二に、保守党内の対立である。イデオロギー的に先鋭化した党で経済的に穏健・健全な路線を歩むのは簡単ではない」
と指摘したうえで、スナク氏自身の「資質」にも触れた。
「第三はスナク自身。税逃れのスキャンダルに加え、自身が引き金となってジョンソン政権が倒れたという恨みがいつまた新首相向けられるか分からない。一度下野したほうが、立ち直りが早いように思うが、手にした権力を自ら離すのは強いられた時のみだろう。今の保守党は、巨大な氷塊に向かうタイタニックのようだ」
今冬から来年いっぱい続く物価高の対応が「正念場」
一方、第一生命経済研究所主席エコノミストの田中理氏は、リポート「英国の命運はスナク氏に託された~まさかのジョンソン再登板は回避~」(10月25日付)の中で、「堅実な政策手腕に定評がある」スナク氏に期待を込める。
「若い頃から英国の欧州連合(EU)からの離脱を支持し、2016年の国民投票でも離脱に投票した。だが、政界入り後は強硬離脱派と距離を保ち、離脱のメリットを声高に主張することもなかった。
雑貨屋の娘だったサッチャー元首相と、薬屋の息子だった自身の出自を重ね合わせ、自らを保守党的価値観と自由主義の信奉者と呼ぶが、コロナ禍の財務相として史上最大規模の政策介入を行った。
財政規律を重視し、トラス氏と争った前回の党首選では、インフレが沈静化した後の減税を主張し、財政規律を度外視したトラス氏の大型減税の危うさを指摘した」
そして、今後の課題をこう指摘した。
「トラス政権の政策迷走と金融市場の混乱を受け、スナク新首相には堅実な政策運営の手腕発揮と党内融和が求められる。(中略)トラス減税の全面撤回に舵を切ったハント財務相が留任する可能性が高い。エネルギー料金凍結の期間短縮と減税撤回後も300~400億ポンド程度の財政の穴があるとされ、ハント財務相は10月31日に予定される中期財政計画の発表と合わせて、追加の増税や歳出削減策を公表する公算が大きい」
「スナク氏の首相就任により、金融市場の不安心理は後退するとみられる。ただ、大型減税の全面撤回により、目先の景気には下押し圧力が強まることが予想される。また、当初2年間を予定していた家庭向けのエネルギー料金の凍結が来年3月末までに短縮され、4月以降はエネルギー料金が再高騰する可能性が高い。物価高騰の長期化でBOE(英イングランド銀行)の利上げ局面が想定以上に長期化する恐れがある」
今冬から来年いっぱいにかけての物価の高止まりをどうするか、英国民の怒りをどう和らげるか、正念場を迎える。
(福田和郎)