「鉄の女サッチャー」の再来と取り上げられ、自身もサッチャー氏を尊敬する英国のエリザベス・トラス外相(47)が2022年9月5日、ボリス・ジョンソン首相の後任を選ぶ保守党党員選挙でリシ・スナク前財務相(42)を破り、9月6日、新首相として就任する。
しかし、トラス氏には「鉄の女」どころか、「鉄の風見鶏」と評するメディアも。現在、約10%のインフレ率が20%を超えるという試算もあるほど、猛烈な物価高騰が襲っている英国経済の舵取りを任せられるのか。
トラス新首相はどんな人物なのか。主要新聞の報道を読み解くと――(新聞各紙の記事は9月6日付の紙面から)
物価高騰に国民受けする「大減税」のバラマキ対策
トラス新首相が直面する英国経済の状況はどうなっているのか。
朝日新聞「英トラス新首相、課題の山 光熱費3倍、インフレ策急務」によると、主にロシアのウクライナ侵攻が生み出した課題が山積みだ。
「英国のエネルギー規制当局は8月、平均的な家庭の年間光熱費が10月から3549ポンド(約57万円)になると発表した。現状の8割増しで、3月時点と比較すると、半年で3倍近く値上がりする計算だ。主因は天然ガスの高騰だ」
不祥事で退任するジョンソン首相の後任選びに手間取り、政府として本格的な対策を打てない間に、事態が急速に悪化したのだ。
記事によると、光熱費の高騰に押し上げられて、英国の7月のインフレ率は足もとで10%を超え、40年ぶりの高水準だという。英イングランド銀行は、物価は年後半にはさらに上がり、個人消費の冷え込みで今年中に景気後退に陥る懸念を示しているとも報じられている。
トラス氏は、就任1週間以内に、光熱費対策と長期的なエネルギー調達についての計画を発表する方針だ。物価高騰対策は、政権の最優先課題となる。
具体的にはどんな物価高騰対策を考えているのか。
東京新聞「英新首相にトラス氏 つかんだのは党員の心、生活費高騰で前途多難」によると、党首選で公約したトラス氏の物価対策の柱は以下の4つである。
(1)総額300億ポンド(約4兆8000億円)規模の即時減税。
(2)来年4月に19%から25%へ引き上げが決まっていた法人税増税を撤回。
(3)今春に上げたばかりの国民保険料を値下げ。
(4)光熱費に上乗せされるグリーン課税(8%程度)の凍結。
ようするに、国民に耳ざわりのいいバラマキ政策なのだ。
年配白人が圧倒的な「身内の保守党員」選挙に勝っただけ
東京新聞はこう続ける。
「当然、懸念も出ている。国民保険料の引き下げでは、新型コロナ対応で疲弊している国民医療サービスの維持が危ぶまれている。グリーン課税は再生エネルギーの導入費用などに充てられており、凍結は温暖化対策が後退する恐れがある。スナク氏は、トラス氏の減税案について『借金頼みで財源が示されず、恩恵を得るのは大企業や富裕層だけだ』と訴えたが、支持は広がらなかった」
その要因について、ロンドン大キングス・カレッジのロッド・ダコーム准教授(政治学)の見方が紹介されている。「『大事なのは、総選挙ではなく保守党員による身内の投票ということだ』。(中略)党員は約17万人で、全人口の0.3%にすぎない。白人が圧倒的で、伝統的価値観を重視する年配男性が多いとされる。『経済や社会問題で、トラス氏は党員の耳に心地いいテーマを選んだ。スナク氏の現実的な経済政策よりも、大義や原則を強調するほうが党員は喜ぶと分かっていた』」
ただ、党員の人気投票を制しても、トラス氏の前途は多難だ。調査会社大手ユーガブによる8月下旬の世論調査では、39%が労働党支持と答え、保守党は31%だった。国民の生活費危機が改善されなければ、2024年総選挙で保守党が大敗するのは必至の情勢だ。
アンチ「意識高い系」をウリに...保守強硬派
ところで、トラス氏はどんな人物なのだろうか。
毎日新聞「トラス氏、どんな人? 『意識高い系』に反対、過去に不倫疑惑も」によると、強気の一方、のし上がるためには変節もいとわない人物らしい。
「(党員集会で)特にストレートな物言いで訴えたのは、保守党の伝統的価値観の擁護だ。欧米では現在、ジェンダーや人種を巡る差別や不公正に高い意識を持つウオーク(woke)との言葉が急速に広まっている。(中略)日本語の『意識高い系』に似ており、これが党首選でも話題になった。
トランスジェンダーの人のためのトイレ男女共用化や、『母親』を『出産する人』に言い換えることなどを主張する動きだが、トラス氏はこれに異を唱え、『反ウオーク』を貫く。
『女性といえば女性のことだ。私は男女別々の空間を支持し、女性の権利を守る』。トラス氏がそう演説する度、会場から大きな拍手が起きた。(中略)保守層の心理に訴えるこうした姿勢も支持拡大の一因とみられる」
読売新聞「トラス氏、学生時代に過激演説」によると、「変節」の経歴は学生時代からだ。
「父は大学の数学教授。政治的には左派で、手厚い社会福祉を重視する労働党支持者だった。看護師だった母も反核団体『核軍縮キャンペーン』の活動に参加するリベラル派で、幼少のトラス氏は反核デモにかり出されてサッチャー首相の辞任要求を叫んだという。今では(中略)筋金入りの保守派だが、根底にはそうした生い立ちへの反動がありそうだ」
「オックスフォード大時代の友人らは、口をそろえてトラス氏を『野心家』と呼ぶ。当時から政治家志向で、少数派中道政党『自由民主党』の学生代表を務め、演説でマリファナ合法化や君主制廃止論を唱えて物議を醸したこともある」
トラス氏は、キャメロン政権時代はEU残留派だったが、のちに熱心なEU離脱派に変わる。それもあって読売新聞はこう続ける。
「支持者アピールを常に忘れない。EU離脱をめぐる宗旨替えの経緯などから『目の前の聴衆に合わせて発言が変わる』(野党議員)との批判もある」
産経新聞「強気前面『新・鉄の女』 外交・政策一貫性に不安」は、政策面に一貫性がないことを指摘する。
「外交上の交渉力には不安も示されている。(トラス氏は)遠慮のない口調で自己主張する傾向が強く、昨年9月のブリンケン米国務長官との会談では、トラス氏が英米間の鉄鋼関税をめぐる摩擦に一方的に言及。外交的な対話とかけ離れた雰囲気だったという」
「トラス氏は英国の欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票でEU残留を支持したが、後に離脱支持に転向。保守党の党首選でも労働者の賃金をめぐる公約を発表後、すぐに撤回し『失態』とも報じられた。英調査会社ユーガブの8月下旬の世論調査では、『トラス氏が首相になれば英国が良くなるか否か』という質問に対し、『良くなる』とした回答はわずか12%だった」
こういったありさまなのだ。
1週間以内に公表する「生活費危機」対策に注目
さて、専門家たちはどう見ているのだろうか。
日本経済新聞オンライン(9月5日付)「英国、リズ・トラス新首相誕生へ 与党党首選で勝利」という記事につくThink欄の「ひと口解説」コーナーでは、ニッセイ基礎研究所研究理事の伊藤さゆりさんは、
「ユーガブが9月3日に公表した世論調査によれば、英国の有権者の75%が新首相に生活費危機への対応を望んでいる。しかし、トラス氏が掲げる『家計・企業への減税案を脆弱な世帯などへの所得支援よりも優先させる対策』への支持は47%で半数に届かず、党首選で敗れたスナク氏の『低所得者等支援とエネルギーVAT(付加価値税)の次元的引き下げ』の62%、最大野党労働党のスターマー党首の『光熱費の据え置き』の69%よりも低い支持に留まる」
と、国民の支持率が低いと指摘したうえで、
「保守党の支持層とより広い有権者の望む政策にはギャップがある。1週間以内に公表する『生活費危機』対策が生活費の高騰に苦しむ人々に届く内容となるのか注目したい」
と、ひとまずお手並み拝見という立場だ。
同欄では、日本経済新聞社上級論説委員・編集委員の小平龍四郎記者は、「女性首相」よりも「ころころ変わる英首相」の不安定さに焦点を当てた。
「女性として『3人目』という点が注目されがちですが、(中略)『6年間で4人目』。英BBCの中継もその点に言及していました。サッチャー、ブレア、ブラウンなど実績を残した歴代首相のイメージが強い英国ですが、最近はかなりころころ首相が変わり、安定感を欠きます」
と指摘。そのうえで、
「トラス氏の言動や政策はサッチャー氏と重なる部分があり、『鉄の女2・0』と呼ぶ向きもあるようです。これはトラス氏の政治的なイメージ戦術かもしれず、経済政策や対EU外交で現実的な軌道修正も予想されるところ。そのほうが結果として長期政権の可能性が高まるのではないでしょうか」
と、現実路線への転換に期待した。
保守主義に信念がなく...サッチャー氏が一番嫌った政策
一方、朝日新聞に載った慶応義塾大学の細谷雄一教授(英国外交史)の「保守主義の信念なし」というコメントはかなり辛らつである。
「トラス外相は、その場その場の環境に順応してキャリアを上昇させてきた。キャメロン政権時は、キャメロン首相(当時)の判断に従い、欧州連合(EU)残留派になったが、保守党が離脱を決めると、強硬な離脱派となった。時代の空気を読み、柔軟に立ち位置を変える力を持つ。
いまの保守党は中道の支持層は離れ、極右政党に近い。トラス氏はサッチャー元首相の服装や話し方を意識し、『サッチャーの再来』というイメージを作ることで保守党員の支持を獲得した」
と、指摘。しかし現実の政策では、
「トラス氏は、減税に取り組みつつ、インフレと高騰するエネルギーに対処すると言っているが、具体的な中身を示していない。これには大規模な財政出動しかないが、さらに大きなインフレが起きれば経済が混乱しかねない。
過剰な財政出動は労働党の政策と変わらず、サッチャー氏が一番嫌った政策だ。トラス氏には、イデオロギーとして保守主義に信念はなく、抵抗はないのかもしれない。ただ、冬に向けてエネルギーが高騰していけば、トラス氏は困難に直面することになるだろう」
と、前途の厳しさに懸念を示した。
英国はまた、新たな首相を探すことになるのか?
日本経済新聞に掲載された英ファイナンシャル・タイムズ前編集長ライオネル・バーバー氏のコメントも辛口だ。
「トラス氏は経済が混乱するさなか、政権を握る。米金融大手ゴールドマン・サックスはエネルギー価格の高騰と労働市場にひっ迫を背景に、英国のインフレ率は22%に高まるかもしれないと推測する。この冬には数百万人が『燃料貧乏』に陥る。暖房と食事のどちらかにお金を使うのか選ばざるを得なくなる」
こうした政治課題は乗り越えられるのだろうか。バーバー氏は懐疑的な見方を示している。
「サッチャー流と異なるのは、減税による財政の穴を多額の借り入れで埋める点だ。党首選で破ったスナク氏は『英国のクレジットカードを限度まで使う』とやゆした。トラス氏は3年以内の返済を約束する。外国の投資家が英国債を購入しなければどうなるのか。トラス氏の政策が頓挫し、金融市場が動揺すれば、政権は崩壊する。英国はまた、新たな首相を探すことになる」
欧州の中心国、英国経済が失速すれば欧州全体に波及するし、世界経済のさらなる後退に直結する。まずはトラス氏が1週間以内に提案するという「英国経済再生策」に注目したい。
(福田和郎)