思わぬチャイナリスクが世界経済を揺るがしている。「ペロシ・ショック」だ。米連邦議会のナンシー・ペロシ下院議長(82、民主党)が2022年8月2日、台湾を訪問して蔡英文総統と会談、「台湾の民主主義を支援する」と表明した。
中国の習近平国家主席がバイデン米大統領との電話会談で、「火遊びは身を焦がす」と警告していたにもかかわらず、台湾訪問を強行した。メンツをつぶされた中国は激怒、8月4日から台湾を包囲するかたちで大規模な実弾軍事演習を行う。
まるで、ウクライナに軍事侵攻する直前のロシアの行動そのものだ。「台湾有事」の危機が高まり、米国株をはじめ日本株、上海株などが一気に下落した。新たなリスクを抱えて世界経済はどうなるのか。
「14憶の中国人民を敵に回して、よい結末はない」
報道をまとめると、ナンシー・ペロシ下院議長の台湾訪問に、中国側は強い表現で怒りを表明した。王毅国務委員兼外相は「『1つの中国』原則は越えてはならない核心的利益であり、最終ラインだ。台湾問題で火遊びし、14億の中国人民を敵に回しても、よい結末は迎えない」などとするコメントを発表。
中国人民解放軍も、台湾周辺で実弾射撃を含む軍事演習を開始すると発表、「米国を震え上がらせる」としている。台湾メディアによると、中国の税関当局が台湾企業を対象に水産物や加工食品の輸入を一時停止した。台湾に対する「経済制裁」とみられる。また、台湾総統府のホームページが域外からサイバー攻撃を受け、一時閲覧不能になった。
中国が激怒するには理由があった。ペロシ氏は、大統領の継承順位が副大統領に次ぐ2位。つまり、米政界のナンバー3だ。これまでも中国の人権抑圧に対する強硬姿勢を示しており、1991年には天安門事件の弾圧を批判する横断幕を自ら天安門広場で掲げたほか、2008年の北京夏季五輪へのボイコット、今年の北京冬季五輪へのボイコットを提唱している。いわば、中国政府にとって「天敵」のような存在である。
「専制」と戦い、「民主主義」守るペロシ氏
今回のペロシ・ショック、政治外交の専門家やエコノミストはどう見ているのだろうか。
日本経済新聞(8月2日付)「ペロシ米下院議長、台湾を訪問 中国軍は演習開始」という記事につくThink欄の「ひと口解説」コーナーでは、東京大学大学院総合文化研究科の川島真教授(アジア政治外交史)は、
「昨今、中国は蔡英文政権を独立志向政権だと見なし、議員であれ、企業であれ、蔡政権に接近する者を全て批判する。アメリカとしては従来からの『一つの中国政策』を変えているつもりはない。だが中国は強く反対し、軍事的威圧を高め、台湾の官公庁に対するサイバー攻撃などを行った」
と、早くも習近平政権が強硬策に出ていると指摘。つづけて、
「中国国内では対台湾強硬論が高まっており、台湾政策も今後一層厳しくなろう。振り返れば、2010年前習政権形成期には日本の尖閣『国有化』があり、それが政権の保守化を加速させた。今回のことにより3期目の習政権が一層保守化するか、内政への影響が懸念される」
と、今後の習近平政権の出方に注目した。
同欄では、笹川平和財団上席研究員の渡部恒雄氏は、
「中国人民解放軍は台湾周辺での軍事演習を開始したようですが、これがどこまでエスカレートして米中の軍事的緊張を高めるのかが懸念されます。習近平主席は、秋の共産党大会に向けて米中関係を不要に悪化させたくはないと考えているとは思いますが、弱腰批判も避けたいはずです」
と、強気に出ざるを得ない事情を説明。
「米国内での党派対立は激しく、もしペロシ下院議長が訪台を断念、あるいは延期したとすれば、共和党側からの激しい批判が予想されていましたが、米中の軍事的緊張が高まれば、(中略)バイデン政権が稚拙なハンドリングで不要な軍事的緊張を高めたとして批判するのではないでしょうか」
と、バイデン政権にとっても正念場であると説明した。
同欄では、日本経済新聞社特任編集委員の滝田洋一記者が「民主主義」に対するペロシ議長の熱い思いをこう説明した。
「『議会使節団の台湾訪問は台湾の躍動する民主主義に対する米国の変わらない関与を示す』。ペロシ議長は台湾訪問に際して、こんな声明を発表しました。下院議長としては25年ぶりの台湾訪問ですが、1997年のギングリッジ議長はわずか3時間の滞在。台湾で2泊し蔡英文総統ら台湾首脳と面談する今回のペロシ議長の訪問は重みが違います。『世界が専制と民主主義の対立に直面するなか、台湾の人たちへの米国の連帯はかつてなく重要だ』とペロシ議長。多くの米国人が異論の差し挟みようがない内容であり、外交の方向をも規定するでしょう」
同欄では、上智大学総合グローバル学部の前嶋和弘教授(アメリカ現代政治)も、ペロシ議長のやむにやまれぬ行動をこう評価した。
「『脅せばアメリカは引っ込める』という前例を作ってしまうので、さすがにこの段階で訪台を見送るのはあり得なかったかと思います。(中略)アメリカの外交政策では予算権限(power of purse)を握っている議会の役割も非常に重要。下院議長ほか議会の外交安全保障の担当各委員会の委員長がそろうアジア各国をめぐる今回の歴訪で、中国の武力進出が懸念される台湾を外す選択も、やはりあり得なかったのかとも思います」
与那国島近くも演習範囲、日本も巻き込まれる恐れ?
ところで、軍事衝突は起こるのだろうか。
ヤフーニュースのヤフコメ欄では、日本国際問題研究所主任研究員の小谷哲男明海大学教授(国際関係論)が、日本も巻き込まれる危険性について、
「中国が(8月)4日から始める台湾周辺での実弾演習は、過去に類を見ない規模と範囲で行われる。台湾を取り囲むように行われるだけでなく、一部台湾の領海も実施範囲に含まれている。台湾本島を飛び越える東岸海域へのミサイル発射もあるとみられ、1995~96年のミサイル演習より烈度の高いものになるかもしれない。空母2隻も投入されるだろう」
としたうえで、
「与那国島近くも演習範囲に含まれ、日本への影響も懸念される。今回の演習が実際の台湾侵攻につながる可能性は低いが、不測の事態は起こり得るため、日米台は緊張感を持って事態を注視する必要がある」
というのだ。
同欄では、日本総合研究所上席主任研究員の石川智久氏は、万が一軍事衝突になった場合に備えて、日本もサプライチェーンの確保を急ぐべきだと主張する。
「状況次第で台湾有事まで発展するリスクがあります。(中略)軍事衝突となった場合にどのようなサプライチェーンの断絶や経済的なショックがあるか再点検し、影響最小化に向けた対応を急ぐ必要があります。多くの日本企業は、米中対立激化を前提とした対応を進めてはいますが、そのスピードは緩やかなものです。時間軸を早めていくべきでしょう」
早くも世界のサプライチェーンに大きな影響
米ブルームバーグ(8月3日付)によると、8月4日から台湾周辺海域で始まる中国の大規模な軍事演習と「台湾有事」を恐れて、東アジアを航行中の液化天然ガス(LNG)を運ぶタンカー船などが、航路を変更したり、速度を落としたりして、早くも世界のサプライチェーンに大きな影響が出ているということだ。
こうした米中対立の長期化に備えて、サプライチェーンの再構築を急ぐべきだと主張するのは、第一生命経済研究所主席エコノミストの西濵徹氏だ。
西濵徹氏のリポート「ペロシ米下院議長の台湾訪問、米中関係や東アジア情勢への影響は」(8月3日付)によると、このタイミングでペロシ氏が台湾を訪れた背景には、民主主義支援を理由に掲げているものの、
「今年11月に実施される中間選挙を巡って、バイデン政権及び与党・民主党が苦境に立たされる展開が続くなか、明確な対中姿勢を示すことで局面打開を狙ったものとの見方もくすぶる」
としている。
一方、米中間選挙と同じ時期に共産党大会を控える中国も、政治的に重要な時期であり、「弱腰」姿勢を見せれば、盤石とされる習近平指導部さえ足元をすくわれかねない。だから、「結果的に米中双方が『高い球』を投げ合う状況に陥っている」と、西濵氏は指摘するのだ。
「(今回)ロシアと北朝鮮が中国を支援しており、ウクライナ問題をめぐり鮮明化した欧米などと中ロなどとの分断は一段と広がる可能性が高い。他方、バイデン政権が目論んだ対中制裁の見直しは暗礁に乗り上げる一方、政治・経済的安定を求める中国は、米国との正面衝突は避けたいなかで難しい対応を迫られる。米中および東アジア地域の緊張状態を前提に、サプライチェーンの再構築などに取り組む必要性は高まっている」
円高への巻き戻しが新たな日本経済の逆風に
ペロシ・ショックによって、リスクのあるドルを売って円を買う動きが進み、ドル円相場は急速に円高に傾いている。この円高への巻き戻しが日本経済のリスクになると指摘するのが、野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏だ。
木内登英氏のリポート「台湾地政学リスクの高まりで金融市場は動揺:リスク回避の円買いも復活」(8月2日付)によると、この先、円は3つの要因によってさらに巻き戻しが続くという。
(1)FRB(米連邦準備制度理事会)の利上げペースの鈍化の可能性を織り込んだ米国の長期金利低下による日米長期金利差縮小。
(2)米国を中心にした世界経済の減速という経済リスクの高まり。
(3)台湾情勢など地政学リスクの高まり。
そして、円の巻き戻しが新たな日本経済の逆風になるというのだ。
「円の巻き戻しが進むことで、日本経済に逆風となっている物価高懸念が多少緩和される、というプラス面はある。しかし、為替市場が円高に振れれば、株価が大きく下落しやすくなるだろう」
「日経平均株価などを構成する企業には大規模な輸出企業が多く含まれていることから、円安によって円換算での輸出代金が増えることで、株価にはプラスに働く。逆に円高が進めば、株価には逆風である。年初来、米国の株価の下落幅と比べると、日本の株価の下落が小幅であったのは、円安進行の影響が大きいだろう」
しかし、これからは円高が新たな危機になる。
「今後、上記3つの要因から円の巻き戻しが進む場合、株価の下落率は米国などと比べても大きくなるだろう。それは国内での消費者心理に悪影響を及ぼす可能性が考えられる。物価高を促す大きな懸念材料であった円安進行が一巡しても、今度は、円の巻き戻しが新たな日本経済の逆風となっていくのである」
(福田和郎)