読売と産経が主張する「統治行為論」
今回の株主代表訴訟の判決が、13兆円という巨額賠償を命じたこともあるが、「国策民営」といわれる国と電力会社の関係、責任分担のあり方も問われているという問題意識は、多くの社説が触れている。
朝日新聞は「3・11が明らかにしたのは、責任をあいまいにしてきた原発の『国策民営』の矛盾とほころびである」、毎日新聞も「原子力災害は事業者が損害を賠償する仕組みになっているが、過失の有無を問わないため、責任の所在が曖昧になる。......電力会社だけでなく、「国策民営」で原発を推進してきた国も、判決を重く受け止めなければならない」などと指摘した。
原発推進の日本経済新聞は「『国策民営』で進められてきた原子力政策を踏まえ、国の関与についてもあらためて議論する必要がある」と問題提起した。
読売新聞も「原発は国策で推進してきた。東電の責任は重いとはいえ、国の責任を棚上げし、4人の個人に全てを負わせることが妥当なのか」と書く。ただし、だからといって、もちろん、国の責任を否定した最高裁判決を批判するわけではない。
読売新聞や産経新聞はこれまでも、原発に批判的、懐疑的な判決が出るたびに、「またもや原子力発電が『司法リスク』にさらされた」(2022年6月20日付 産経新聞主張「泊原発の差し止め 科学的論理欠いた判決だ」)などと司法が原子力政策に『介入』することを批判。「高度で最新の科学的、技術的知見に基づいた行政側の審査結果を尊重する司法判断が、これまで積み重ねられてきた。今回の高裁決定は、こうした枠組みからはみ出すもの」(20年1月18日付 読売新聞社説「伊方差し止め 司法はどこまで判断するのか」)などという論法で、今回も、こうした流れでの判決批判を展開している。
両紙の主張は、統治行為論(高度の政治性ある事柄に関しては司法判断になじまない)に近い。福島第一原発事故という未曽有の被害を経験した今、読売新聞が主張するような「技術的知見に基づいた行政側の審査結果を尊重する」というような行政追認でいいのかが、問われていると考えるべきだろう。
下級審の判決の積み重ねが最高裁を動かして判例が変わるということはこれまでもあった。今回も、民主主義社会の司法の在り方を考えさせられる判決だったと言えそうだ。(ジャーナリスト 岸井雄作)