安倍晋三元首相が狙撃され亡くなられるという、痛ましい事件が起きました。日本で大物政治家が銃撃により暗殺されるという想像もしなかった事件の衝撃は大きく、当然ながら、テレビ、雑誌、ネットはこの話題で持ちきりとなっています。
知らず知らずのうちに世界を覆いつくす悪しき風潮
事件発生当初、報道に登場する政治家やニュースキャスター、コメンテーター方のこの事件に対する発言トーンは、「民主主義に対する挑戦」「暴力による言論弾圧」を非難するというものが目立っていました。
しかし、被疑者の動機が全く政治的理由ではなく至極個人的な事情に起因しているものであると判明するにつれ、そのトーンは収まりをみせてきました。そうなると報道の矛先は、被疑者の動機である個人的事情の原因となったと思しき宗教集団の寄付共用に対する糾弾、という方向に変わってきています。
個人的に思うのは、全国民が動揺を覚えるほどの大きな事件から、我々一人ひとりが注視すべきポイントはどこなのか、ということです。
民主主義擁護や言論の自由は、今言われている被疑者の犯行動機から考えて、どうやら関係なさそうです。また、メディアで指摘されている要人警護に落ち度があったのではないかということは事実のようですが、それも我々には直接は関係ないことのように思います。
さらには先にも触れた、犯行動機につながったと思しき宗教団体の活動を執拗に糾弾することも、必要なことではありますが注視すべき問題の核心ではないように思うのです。
私が思うこの事件の問題の本質は、「暴力」行使という被疑者の行動こそ、我々一人ひとりがことさら重大なこととして捉えなくてはいけないのではないのか、ということです。なぜならこの事件の根底には、今の世の中を広く覆う風潮の問題が横たわっているように感じるからなのです。
その風潮とは、自分の思いを果たすためには武力行使、暴力による実力行使も正当化され得る、という悪しき風潮です。この由々しき風潮は今年の春以降、知らず知らずのうちに世界に覆いつくしてきたかのように感じるのです。