みずほ銀行と言えば、「度重なるシステム障害」という印象を持つ人が多いかもしれない。第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行という名門銀行3行が合併し、世界最大級の銀行が誕生すると喧伝されたが、いまや業績面では3メガ銀行中で3位が定着してしまった。本書「みずほ、迷走の20年」(日本経済新聞出版)は、「いったいどこからみずほの失敗が始まったのか」、長年金融業界を取材してきた著者がその疑問へと迫る一冊である。
「みずほ、迷走の20年」(河浪武史著)日本経済新聞出版
著者の河浪武史さんは、日本経済新聞金融部長。1995年に日本経済新聞入社。経済部次長(金融担当)、米ワシントン支局首席特派員などを経て、2021年より現職。
ワシントン特派員当時の2018年、スイスで開かれた「世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)」で、みずほフィナンシャルグループ(FG)の佐藤康博社長(当時)とひそかに会い、同じように興銀出身で後任となる坂井辰史氏を紹介してもらう場面から書き出している。つまり、みずほのトップと太いパイプを持つ記者であることが分かる。
ATMにキャッシュカードが吸い込まれた...大規模トラブル
本書の特徴は2つある。
1つはみずほと金融当局の双方を長くディープに取材してきた人が、同社の組織、トップ人事、企業風土について遠慮なく切り込んでいること。
もう1つは、みずほ問題を単なる「銀行叩き」に終わらせず、日本の金融史の検証そのものとして、日本の経済社会の問題として描いていることだ。
まずはシステム障害について見てみよう。2021年2月28日に起きたシステム障害は記憶に新しい。みずほ銀行の店舗などのATM4318台で、通帳やキャッシュカードが吸い込まれて取引不能になる障害が発生。大きなパニックを引き起こした。
最大の問題はトラブルが広がっているにもかかわらず、店頭に誰も行員が駆けつけないことだった。トラブルが発生し、システムの監視担当者がエラーメッセージに気づいたのは15分後だったが、それは基幹システムのトラブルと認識され、全国のATMで利用客が取り残されているとは思わなかった。
「言うべきことを言わない」企業風土
ようやく3時間後の午後1時に事態を把握。みずほ銀行の藤原弘治頭取が知ったのは4時間後で、それも社内連絡ではなく、偶然、ネットで流れたニュースを見たからだったという。
著者の河浪さんは、「同社では経営トップにトラブルを矮小化して報告することが常態化していた」と書いている。のちに金融庁は、「言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない」とみずほを批判したが、この危機発生時にもそうした企業風土が露呈したのだった。
ここから過去のシステム障害に遡って検証が始まる。
みずほ銀行は2002年4月1日の統合初日にも大トラブルを起こしていた。ATMで預金を引き出そうとすると、現金が出てこないまま、口座の残高だけが減ってしまう「悪夢のようなトラブル」が起きていた。旧富士銀行と旧第一勧銀の支店で互いのキャッシュカードが使えない事態も発生した。
当初想定したシステムの一本化がされないまま、つぎはぎだらけのシステムでスタートしたのが原因だった。「不良債権問題に追われてシステム統合のコストを十分に捻出できなかった」という当時の関係者の証言を紹介している。
そして、基幹システムの刷新は、先送りされることになった。預金業務などを扱う勘定系システムは第一勧銀が1988年に開発した「STEPS」を使い続けることになった。みずほOBは「化石のようなシステム」と称し、運用面でいくつもの落とし穴があったという。
その1つが「口座の受入件数の上限」。2011年3月の東日本大震災の発生から3日たった3月14日には、テレビ局が呼びかけた義援金の振り込みが殺到して、処理ができずにパンク。未処理案件が溜まり、多くの有名企業で給与の振り込みが間に合わないトラブルになった。これが2回目の大システム障害。
ワントップ・ワンバンク体制になったが...
みずほのシステム運営部門は発足直後の02年の大規模障害によって、主導権が旧第一勧銀から旧富士勢へと移っていたが、「口座の受入件数の上限」があることは引き継ぎされていなかった。旧富士勢を中核とするシステム運営部門は詳細を認識していなかったのだ。
「旧3行の対立はシステム障害でさらに深まり、組織としてはもはや成り立たないほど脆弱になっていた」
少数の改革派と金融庁の高官は、「持ち株会社と2銀行という3つの組織を、旧3行の出身者がそれぞれトップを務めるみずほの統治体制は、旧3行の縄張り意識を強めるだけの結果しかもたらさなかった」という認識に至った。
そして、みずほ銀行とみずほコーポレート銀行が合併し、持ち株会社社長には旧興銀出身の佐藤康博氏が就任する、ワントップ・ワンバンク体制が2013年にスタートする。
冒頭、佐藤康博氏と後任の坂井辰史氏が登場した理由がここで飲み込めた。
新体制のもと、基幹システムを抜本刷新して4500億円を投じ、「MINORI」を2019年に本格稼働させたが、システム運営の中核部隊である「みずほリサーチ&テクノロジー」は、担当人員を18年時点の1051人から21年2月には345人まで急激に減らしていた。
背後には、坂井体制で推し進めたコスト圧縮路線があった。みずほFGの経費率は坂井氏が社長になり、79%から60%まで下がり、業績はアップした。
だが、2021年の度重なるシステム障害は経営そのものの問題として、金融庁は経営陣の刷新を求め、異例の業務改善命令を発出した。11月、トップが総退陣し、みずほFGは平成入行組の木原正裕氏を新CEOに選んだ。
グリーンファイナンスとデジタルを核とした再起動に期待
本書のもう1つの視点である日本の金融史との関連を整理すると、小泉純一郎政権で不良債権処理を任せられた竹中平蔵氏(金融担当相)が求めた銀行の自己資本比率アップが、最初の大きな足かせになったようだ。
そこで、取引先企業など3400社に1兆円増資を引き受けてもらった。公的資金の注入はまぬがれたものの、メインバンクとしての発言力は落ちた、と見ている。
また、リーマン・ショックでみずほは、邦銀最大の損失を出した。米モルガン・スタンレーに90億ドル(9000億円)資本参加した三菱UFJフィナンシャル・グループは、その後、モルガンから大きな収益を得ている(21年3月期の連結純利益7770億円のうち2952億円はモルガンの貢献分)。みずほにもモルガンからの支援要請はあったが、現実的に財務余力はなかったという。
最後に、河浪さんはみずほ迷走の原因として、統合後のグランドビジョンがなかったこと、旧3行の縄張り争い、大企業が持つ「無謬主義」の3つを挙げている。
そのうえで、新社長になった木原氏には、グリーンファイナンスとデジタルを核とした、みずほの再起動を期待している。
戦後の高度成長期、日本は、銀行からの「間接金融」が主体で、銀行は預金を集めて融資を増やせば自動的に利益が出た。日本の銀行には「経営」はなかった、と厳しく指摘している。「みずほの再生プランは、日本の金融再生そのものの絵姿になろう」と結んでいる。
(渡辺淳悦)
「みずほ、迷走の20年」
河浪武史著
日本経済新聞出版
1760円(税込)