6月22日(2022年)参議院選挙が公示された。前日行われた党首討論会では、最近の物価高に対する政権の対応に多くの時間が割かれた。ところで、物価はなぜ上がり下がりするのか? 本書「物価とは何か」(講談社選書メチエ)は、最近急速に発展してきた物価理論の第一人者による画期的な入門書だ。
「物価とは何か」(渡辺努著)講談社選書メチエ
著者の渡辺努さんは、東京大学大学院経済学研究科教授。日本銀行勤務、一橋大学経済研究所教授などを経て現職。専攻はマクロ経済。著書に「市場の予想と経済政策の有効性」などがある。
「物価とは蚊柱である」
「はじめに」で、「物価とは蚊柱である」と書いている。どういうことなのか? 商品の群れから少し距離をとって眺めると、蚊柱というひとつの物体があるように、商品の群れ全体が見えてくる。これが、物価だというのだ。
このたとえは、経済学者の岩井克人さんが用いたもの。そして、この「蚊柱理論」をひとまず頭の片隅に置いたうえで、物価について経済学を使って考察している。
本書を読むと、物価についての「常識」が覆されていく。日本で直近の大きな物価変動は、1974年のインフレで、消費者物価指数が前年に比べ23%上昇した。「狂乱物価」と呼ばれた。
前年の73年に起きた第4次中東戦争により、原油価格が高騰し、日本でも石油関連製品の値段が急上昇した。そのため、「インフレの原因は原油高」と誰もが信じていたが、その後の検証で、因果関係ははっきり否定されたという。
真の原因は、日銀による貨幣の供給過剰だったというのだ。
当時は、為替レートが固定相場制から変動相場制へと移行する過渡期で、一部の商社や金融機関は、変動相場制になれば円が高くなるだろうと予想して、ドル売り円買いの取引によって円を蓄えようとしていた。
日銀はそうした動きに呼応して、大量のドルを買い取り、円を市場に大量に放出するオペレーションを行った。さらに、当時の田中角栄政権によって大量の財政資金が市中にばらまかれていた。こうした二重の貨幣供給の過剰により、急激なインフレが起こった、と説明している。
原油価格が上がっても、貨幣量が増えないかぎり、物価は上がらない。この主張をもっとも強力に展開したのがアメリカの経済学者、ミルトン・フリードマンだと紹介している。
フリードマンは、「人々の予想が物価決定に中核的な役割を果たす」とも主張し、その業績により76年にノーベル経済学賞を受賞した。渡辺さんは「インフレもデフレも人々の気分次第」と言い換えている。
インフレを封じる仕組み
次に、ハイパーインフレを封じるための仕組みを紹介している。
日銀と政府は2013年に「インフレターゲティング」を2%に決めた。主要先進国の多くが同様の仕組みを採用している。米国や欧州は日本と同じ2%だが、異なる国もある。
人々の予想するインフレ率が中央銀行の望む水準よりも高い場合は、金利を大幅に上げることでその予想に対抗するのが、政策運営の鉄則で、「テイラー原理」と呼ばれている。
米国の連邦準備制度理事会(FRB)が金利をいくら上げると、インフレ率がいくら上がったかを長年のデータから検証したのがジョン・ブライアン・テイラー。この人が提唱したのは、1993年のことだというから、比較的最近のことだ。
2021年、日本や米国・欧州などの先進各国は、100年ぶりに金利ゼロの飽和点にいた。人々のインフレ予想を引き下げ、ゼロの近くで安定させるという政策の成果だが、「中央銀行の力が及ばない世界に迷い込む可能性もある」、という英国の経済学者ジョン・ヒックスの言葉を引用し、警告している。
「第3章 物価は制御できるのか」では、インフレ予想について、経済学者が政策当事者と連携してきたことを紹介している。さまざまな理論が紹介されている。価格が上がらず硬直的なのは、レストランがメニューの書き換えを嫌がるためだという「メニューコスト仮説」、インフレ率と失業率には相関関係があるとする「自然失業率仮説」などを解説している。
さらに、中央銀行のアナウンスと人々のやりとりについて、ゲーム理論を用いて説明している。
かつて沈黙を守ったことから、「寺院」と称された中央銀行は積極的に情報を発信するようになった。各国の金融市場は他国の市場とリンクするようになり、中央銀行は「ちょっと大きめの取引をする市場参加者の一員」にすぎなくなったからだ。
リーマンショックの危機からの脱出の司令塔役を果たしたベン・バーナンキ元FRB議長の「中央銀行の行う金融政策は98%がトークで、アクションは残りの2%にすぎない」という言葉を紹介している。
その中身は「将来も貨幣を飽和させる」という約束だった。こうした政策は「フォワードガイダンス」と言い、実は日銀が元祖だ。渡辺さんを含め、日本の経済学者や政策当事者が貢献したという。日本のゼロ金利政策を、米国はチームを立ち上げ、緻密に調べていたそうだ。
バブルとその崩壊でも、物価は動かなかった
物価が上昇してきた今、「第4章 なぜデフレから抜け出せないのか」を読むと、複雑な思いにかられる。
1980年代後半の日本では、不動産や株の価格が急上昇する「バブル」と呼ばれる現象が起きたが、物価は上がらなかったという。当時、日銀にいた渡辺さんは不思議に思った。バブルとその崩壊の局面で物価が動かなかった理由を知りたいというのが、渡辺さんの出発点になったという。
その後、日本ではデフレが続き、商品の価格は上がらなくなった。この「価格据え置き慣行」はなぜ続いたのかを詳しく論じている。
「メニューコスト仮説」では説明がつかなかった。実は、価格は変えずにサイズを小さくするという「ステルス値上げ」がさまざまな場面で起きていた。それくらい、消費者は価格の上昇に敏感で、企業は値上げを恐れていたのだ。
「おわりに」で、渡辺さんは「コロナのパンデミックでインフレになるかもしれない」と2020年春に警告していたことを明かしている。日本が長く苦しんでいたデフレからの脱却になるのか、それともインフレになるのか、それはまだわからない。
入門書の体裁をとりながらも、経済学のエッセンスに触れることができる好著である。
(渡辺淳悦)
「物価とは何か」
渡辺努著
講談社選書メチエ
2145円(税込)