「もし」で始まるタイトルに、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(ダイヤモンド社)を思い出したが、あれは小説であり、漫画、テレビアニメ、映画化もされたエンターテインメント作品だった。それでいて、ドラッカーの経営理論にも触れることができ、大ベストセラーとなった。
前置きはさておき、本書「もし幕末に広報がいたら」(日経BP)は、歴史的な出来事を報道発表の視点で描き直し、広報の業務を解説したビジネス書だ。サブタイトルの「『大政奉還』のプレスリリース書いてみた」に引かれて読んでみると、現代のビジネス社会に通じるヒントに満ちていた。
「もし幕末に広報がいたら」(鈴木正義著、金谷俊一郎監修)日経BP
著者の鈴木正義さんは、NECパーソナルコンピュータ、レノボ・ジャパン広報の部長。監修者の金谷俊一郎さんは、歴史コメンテーターで東進ハイスクール日本史講師。
本書は、「リスクマネジメント」「制度改革」「マーケティング」「広報テクニック」「リーダーシップ」の5章からなり、42のプレスリリースが登場する。どれも歴史的な題材をもとに、大真面目に広報を展開している。
「武田信玄の死を広報的にごまかしてみる」
最初に登場するのが、「リスクマネジメント」の章の「武田信玄の死を広報的にごまかしてみる」。武田信玄は、自身の死を3年間隠すよう、遺言したとされている。それになぞらえて本書が示した「当家当主の生死に関する一部報道について」のタイトルで始まる武田家広報の「内部資料」が傑作だ。こうある。
「本日、一部報道機関において当家当主武田信玄が死亡しているとの報道がなされましたが、本件は当家が発表したものではありません。当主信玄は健在です」
明確に「死亡」を否定している。実はこれ、白黒つけたくない場合のコメントとしてよく使われる、「当社が発表したものではありません」という便利な表現を活用している。ほかにも、以下のようなQ&A例が載っている。
Q 武田信玄は死んだのではありませんか?
A いいえ。健在で、執務中の姿を多くの家臣が目撃しています。
Q 影武者がいるとの噂は本当ですか?
A 噂については当家ではコメントしません。信玄はいたって健康で、天下統一について戦略を練っています。
Q 信玄本人に会うことはできますか?
A 現在上杉家との川中島対抗戦の準備中で、多忙につきすべての取材は一律に辞退させていただきます。
カリスマ経営者のいる広報は「守り」も大事だとして、危機管理上、上記のQ&Aは持っておくべきだとも。もちろん現代なら、大ウソになりNGだが、「戦国時代なら広報の欺瞞作戦も重要な武器」だとのことだ。
つづいて、制度改革の章では、いよいよ「大政奉還」のプレスリリースが登場する。「幕府、大政奉還を奏上」のタイトルで始まり、「今後も幕府は公武合体の新スキームの下、これまで200年以上にわたる幕府運営のナレッジを生かし、朝廷を支援してまいります」で終わる。
鈴木さんは、「報道発表にあたっては、まずは『ニュースの見出しに欲しいこと=プレスリリースの狙い』を整理します」と説明する。この場合は、倒幕を画策していた薩長に対し先手を打って、実質的に幕府体制を維持するため、好意的な世論を形成することにあるのだ。
大政奉還した理由、どのような新体制になるのか、最後は幕府が国政に関与することのメリットを強調して、締めくくっている。
歴史上は、大政奉還によって倒幕のトーンはいったん下がったものの、結局、幕府は倒された。倒幕派は「錦の御旗」というシンボルを掲げることによって、幕府を完全に朝敵にしてしまった。本書では、幕府VS新政府はコミュニケーション勝負でもあり、後者がコミュニケーションのスピードや手法でも幕府を上回った、と評価している。
源頼朝が編み出した「エンゲージメント強化策」
マーケティングの章では、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公である源頼朝が編み出した「エンゲージメント強化策」を取り上げている。
武力によって前政権を倒しても、安定させるのは難しい。十分な報酬がメンバーに与えられないと、不満が募るからだ。頼朝といえば、有名な「御恩と奉公」というシステムをつくり上げた。
現代の企業では、社員を会社につなぎ留め、高いモチベーションで仕事をしてもらうために「エンゲージメント(深い結びつき、愛着)」が大切である。「御恩と奉公」もエンゲージメントを狙ったもので、非常にモダンな発想だったという。この章で示したプレスリリースも、この制度をわかりやすく説明したものだった。
ちなみに、鎌倉幕府はその後、御家人は自身の領土が増えなくて、不満を持つに至る。「元寇」では多くの犠牲を払ったにもかかわらず、元軍を打ち払った後も何のメリットがなく、求心力を失っていくのだった......。
現代の企業では「社内広報」が大事だという。SDGsなど社会的意義のある活動を自社が行っていることを社内広報によって実感してもらい、エンゲージメントを高めている。無限にインセンティブが増え続けなくても、社員のエンゲージメントを維持できるメリットがある。
監修に当たった金谷さんは「日本の歴史はプレスリリースの歴史である」と書いている。「和」がなければ成立しないのが日本の社会であり、それを周知させ、納得させるのが広報活動そのものだからだ。
本書には、「聖徳太子をメディアに売り込む最高の広報」「坂本龍馬が150年後に向けたプレスリリース」など魅力的な項目が並ぶ。広報を学びながら、日本史についても新たな知見を得られるだろう。
(渡辺淳悦)
「もし幕末に広報がいたら」
鈴木正義著、金谷俊一郎監修
日経BP
1870円(税込)