その店に入ると、棚やショーケースに並ぶほとんどの商品がどれも手のひらに収まるようなサイズで、自分の身体が大きくなったかのような錯覚を覚える。
もちろん本を開けば、きちんと活字が印刷されており、サイズ以外は違和感がない。文学や趣味の本など、内容は自由で幅広い。なかには触ることをとまどうほど、小さく造形をした本もある。ここは小さな「豆本」の専門店、「呂古書房」である。店主の西尾浩子さんにお話を聞いた。
神保町初の女性店主として独立
幼い頃から古本に親しんでいた西尾さんは、神保町の限定本の専門店で経験を積んだという。そして、「経験を活かし、自分なりの書店を立ち上げたい」と平成5(1993)年に呂古書房を始めた。
「独立するにあたって、大きな本は女手では難しいと思ったんです。そこで装丁の美しい、豆本や限定本(版画・挿画本)を中心にと考えました」
当時古書業は男性中心。あるいは、古書店で働く女性のほとんどが店主の家族だった。外部の女性の独立は珍しく、「独立1号」として新聞にも載ったほどだ。
「当時の古書会館(古書の市場などを行う)は、女性用トイレが一つしかありませんでした」
あっけらかんと語る西尾さんから、しなやかなたくましさをもった当時の姿を想像させた。
戦後、北海道発で豆本ブームに!
「豆本」を説明しておくと、文字通り、小さなサイズの本ということになる。もっとも、その歴史は古い。
西洋では16世紀ごろからミニチュア・ブックが作られ始め、聖書など持ち歩き用の宗教書がメインだったという。日本では江戸時代後期から。女性・子供向けの娯楽本やお雛様の段飾りの中にある小さな絵本「雛絵本」、旅先などで袖に入れて持ち歩き読める小型本「袖珍本」などが作られていた。
豆本史に新たなページを開いたのは戦後、昭和28年(1953年)北海道の愛書家たちによって「ゑぞまめほん」が作られる。この本がきっかけとなり、豆本ブームが北から全国に波及した。各地域で豆本が刊行され、会員同士での交流が盛んに行われた。一般の本のように大量生産はできないが、一冊一冊に工夫が凝らされ、豆本専門の出版社の手仕事が光る、美しくユニークな本が多く作られた。
敬愛する武井武雄先生!!
西尾さんが以前仕事をしていた店は作家との関わりも深く、「豆本」のきっかけにもなった武井武雄氏もその一人だった。そして、西尾さんにとって憧れの「先生」でもある。「豆本」がブームになってから、武井氏は「豆本」という名称を離れ、「刊本」の世界へ。意匠を凝らした美しい作品群は「武井武雄の会」会員のみに頒布されていた。
西尾さんは当時スタッフとしてその会を手伝っていた。しかし、まだ会に入りきれない人たちが順番を待つ「我慢会」の、そのまた次の「超我慢会」のメンバーでもあった。
「先生は自分を曲げない方で厳しい面のある方でしたが、思いやりの深い方でした。当時は手に入れられなかった憧れの本を、今はこうして商品として大切に扱わせていただいている」と懐かしそうに語る。
「紙の宝石」と呼ばれる、麗しき蔵書票
呂古書房では蔵書票も多く取り扱っている。蔵書票とは、本の見返しに貼って本の所有者を示すための小紙片。その世界もまた、面白い。票主が作家に依頼し、図柄や版種(木版・銅版・石版他)もさまざまで、希望の図柄(モチーフ)などが取り入れられている。著名な芸術家の作品もあり、現在は「紙の宝石」と呼ばれるほどの美術品になっている。
呂古書房では平成11(1999)年、木版画家山高登さんの書票集「山高登開化書票集」を出版して好評を博した。「文明開化」をテーマにした山高氏のこの書票集は、木版画書票35葉が収まる贅沢な作りとなっている。
豆本や蔵書票の緻密さ、美しさに触れると、当時の蔵書家たちの趣味に対する豊かな探求心を感じずにはいられない。 便利で簡単にモノを買うことができる現代では、味わい難いものだろう。武井武雄先生の作品を触る西尾さんの姿は、モノとしてのみならず、一冊に込められた熱量を丸ごと慈しんでいるように見えた。
(ながさわ とも)