巨星墜ち、昭和という時代の終焉を感じた日...あらためて問う!リーダーとはどうあるべきか?(大関暁夫)

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戦後の「新しい日本」を先導した2人のリーダー

   石原氏の訃報に接して、私は氏とは対になる存在と密かに捉えてきたひとりの「昭和人」のことを思い出しました。故青島幸男氏です。石原氏とは同い年。放送作家から作詞家、テレビへのタレント的出演など多彩な活躍で知名度を上げ、石原氏と同じく国会議員に転じて昭和の「ジャパニーズドリーム」を体現した一人でした。

   奇しくも、議員初当選も石原氏と同じ1968年の参議院議員選挙の全国区。自民党と無所属の違いはあれど、石原氏が1位当選、青島氏が2位当選というワンツーフィニッシュからは、いかに当時彼らの国民的人気が高かったのかがうかがい知れ、戦後20余年という時代的背景を強く感じさせられます。

   青島氏のスタイルは徹頭徹尾石原氏とは対照的に思えました。誰からも束縛をされない「気ままな自由人」「一匹狼」といったタイプでしたから。もっとも、高度成長期、「無責任」キャラで一世を風靡した人気タレント故植木等氏のイメージを創ったのは、放送作家兼作詞家としての青島氏でした。氏が作詞した「スーダラ節」で象徴的にイメージされた植木等のキャラクターは、国民から絶大な人気を誇ったのですが、そこには青島氏が思い描いた戦後日本の理想的な生き方を体現した人物像が込められていたように思います。

   一見、石原氏とはまったく別の道筋を歩んで来たかのように思える青島氏ですが、氏の思想の根底にあったものもまた戦前、戦中の思想的・生活的拘束に対する反骨であろうという意味からは、その心根は石原氏と同じ戦中体験に根差していたと言えます。

   両氏とも自己の知名度を上げ政界に打って出たことからは、戦後の「新しい日本」をリードするという気概をもって行動したという共通点も見えてきます。共に、政治家としての活躍の場を国政から首都東京に移したのも(青島氏は95~99年に都知事を務め、氏辞任の後、石原氏が2012年まで後任を務めた)、決して偶然ではないとも思えるところです。

大関暁夫(おおぜき・あけお)
スタジオ02代表。銀行支店長、上場ベンチャー企業役員などを歴任。企業コンサルティングと事業オーナー(複合ランドリービジネス、外食産業“青山カレー工房”“熊谷かれーぱん”)の二足の草鞋で多忙な日々を過ごす。近著に「できる人だけが知っている仕事のコツと法則51」(エレファントブックス)。連載執筆にあたり経営者から若手に至るまで、仕事の悩みを募集中。趣味は70年代洋楽と中央競馬。ブログ「熊谷の社長日記」はBLOGOSにも掲載中。
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