「ロッテ」と聞いて、思い浮かべるものは人によって異なるかもしれない。
ガムやチョコレートなど菓子メーカーとしてのロッテ、パリーグの球団千葉ロッテマリーンズ、韓国通ならソウルの巨大な屋内テーマパーク・ロッテワールド。そのいずれも一人の男が、一代で築いたものだ。
本書「ロッテを創った男 重光武雄論」(ダイヤモンド社)は、重光武雄と辛格浩(シンキョクホ)。日本と韓国で生涯2つの名前を使い分けた男についての本である。
「ロッテを創った男 重光武雄論」(松崎隆司著)ダイヤモンド社
ロッテが多面的な相貌を持つように、さまざまな読み方ができる本だ。
最も経済的に成功した在日一世であり、その伝記として。また、いまや韓国の財閥ナンバー5の地位にある韓国のロッテグループ。いかにして短期間に巨大なコングロマリットを築くことができたのか、という日韓の現代経済史として。さらに「マーケティングの鬼才」と呼ばれたのが重光だ。ロッテのガムをかみながら育った世代としては、その卓越したセールスプロモーションにもふれながら、成長の歴史をたどってみたい。
「発明家にでもなったほうが出世の近道ではないか」
著者は、経済ジャーナルの松崎隆司氏。戦前の韓国の事情や、重光の生い立ちから晩年まで実に詳細なため、どう取材したのかと思ったら、「おわりに」でタネ明かしをしている。
重光の長男である重光宏之氏(ロッテ)が書いた「私の父、重光武雄」というハングルで書かれた未訳の本があった。韓国でまず発行される予定で、新聞に紹介記事まで出ていたが、発売直前に取り止めになったという。2017年8月のことだった。
「このまま埋もれさせてしまうのはあまりにもったいない」
そう考えた松崎氏は、関係者に補足取材をした。タネ本と章タイトルを比べると、新たに取材し、書いた部分が多いことがわかる。
最初に伝記的なことを簡単におさらいしよう。
重光は1922(大正11)年、日本統治下の慶尚南道の農村に生まれた。現在は蔚山広域市の一部になっている。そして、伯父に学費の援助を受け、農業実修学校を卒業。日本が作った種羊場に職を得た。すでに結婚していたが、警察署長の助けを得て、単身、日本に渡った。
さまざまなアルバイトをしながら、早稲田実業学校の2部を卒業する。「何か技術を学んで、発明家にでもなったほうが出世の近道ではないか」と、早稲田高等工学校応用化学科に入学した。夜間3年制の各種学校では、勤労青年を対象に工業技術を教育した。
それから、旋盤の研削油などを開発する研究所でも働くようになった頃、ある老人が出資し、工場を作った。しかし、空襲で焼け、終戦。研削油の原材料であるひまし油を使って石鹸の製造を始める。これが、製造業の始まりだった。