「日本は火力ではなく水力を基軸にすべし」
日本は火力ではなく水力を基軸にすべし。大正5(1916)年から大正13(1924)年にかけて、福澤桃介は政府を相手に死に物狂いの論争を展開している。逓信大臣をはじめとする政府首脳に宛てた多くの書簡が遺されている。その中に「大阪送電と大阪の煤煙」という論稿がある。
桃介は明治34(1901)年から大正元(1912)年までの、大阪・東京・名古屋の三大都市における乳児死亡率の統計表を示し、水力主流の名古屋と火力主流の大阪では運泥の差があることを立証した。東京はその中間である。
以下引用。
「工場の煙突から吐き出す煤煙は大阪市民を毒殺しつつある。この表を見よ。この数字によれば、大阪は明治39年以前には常に死亡超過を見、その後も出生超過率が他市と比べ、はるかに劣等であるあることがわかる。上下水道その他衛生設備は東京、大阪に比べて遜色なく、しかも気象の激変も少ないにもかかわらず、このように悲惨な数字を示すのは、大阪市及び付近における工場の煙突から吐き出す煙突が大きな原因としか考えられない。...... 煙突の最も少ない名古屋の出生超過率が最も優秀である事実は煤煙が人類を毒殺しつつあるよい証拠である」(出典:「福澤桃介論策集解題 天馬行空大同に立つ」藤本尚子著)
大正5年(1916年)5月に、すでにこのような見識を示している。公害が表面化して、いわゆる環境問題が取り沙汰されるようになったのは1960年以降である。桃介の先見の明に目を見張らざるを得ない。