「令和の所得倍増」というド派手な看板こそ下げたものの、「企業に賃上げをさせる!」というスローガンを岸田文雄首相が打ち出した。
その決め手として企業に付きつけるのが、法人税の減税という「アメ」による「賃上げ税制」だが、いったいどんなものなのか。今度こそ期待してよいのだろうか。エコノミストたちの評価は......。
アベノミクスで失敗した所得拡大策の焼き直し?
いかに日本の実質賃金が下がり続けているか――。非常に残念なグラフを紹介しよう。第一生命経済研究所の首席エコノミスト、熊野英生氏が2021年10月19日に発表したリポート「分配戦略:もっと吟味すべき3つの論点 ~どこに勤労者は不満を持つのか?~」で掲載されている「物価と賃金」の関係だ=下のグラフ参照。
これを見ると、実質賃金が1996年をピークに、ほぼ一貫して下落していることがわかる。第2次安倍政権で始まった「アベノミクス」によって、2013~2018年まで名目賃金は上昇した。しかし、それを上回るペースで消費者物価が上昇したため、実質賃金が下がり続け、人々の生活はさらに苦しくなった。
G7(主要先進7か国)の平均賃金の順位をみると、日本は現在、最下位。米国、ドイツ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、日本の順だ。金額比をみると日本は米国の59%、ドイツの72%、イギリスの82%である。2015年時点で日本は韓国やイタリアを上回っていたが、2019年に韓国とイタリアに追い抜かれてしまった。
こうした実質賃金の下落を何とかしようと、岸田文雄政権は11月19日に閣議決定した「経済対策」の柱に「賃金の引上げ」を打ち出した。
具体的には「賃上げ税制の強化」によって、企業に賃上げを促していく。企業が一定の割合以上に従業員の賃上げを行うと、法人税を減税する「優遇」を行うというもので、自民党税制調査会(宮沢洋一会長)などで、本格的な議論が始まった。12月上旬に取りまとめる2022年度税制改正大綱に盛り込む方針だ。
じつは、「税の優遇」によって企業に賃上げを促すやり方は、岸田政権が初めてではない。第2次安倍晋三政権がアベノミクスの成長戦略の一環として2013年に導入した所得を増やすための政策の1つだった。「所得拡大促進税制」と名付けられ、8年間にわたり、少しずつ法人税の税額控除率など条件を変えながら続いてきた=図表1参照。
ところが、目立った賃上げの効果はなかった。現行の「賃上げ税制」は、賞与(ボーナス)も含めた従業員の給与総額が前年度より増えた場合に、法人税額から支給額の一部を差し引くことで企業の法人税負担を軽減する仕組みだ。
その条件は大企業と中小企業で異なり、大企業は新規雇用者の給与総額が前年度より2%以上増えれば支給額の15%分を、中小企業は全雇用者の給与総額が1.5%以上増えれば増加額の15%分を控除できるというもの。
なぜ、賃上げの効果がなかったかというと、理由は大きく2つある。1つは、企業が従業員の基本給を上げずに賞与(ボーナス)などの一時金の支給によって「税の優遇」を受け続けたこと。
2つ目は、そもそも日本の全企業のうち黒字で法人税を払っているのは大企業を中心に35%ほどしかなく、法人税を払っていない大半の企業にとっては、何の「うまみ」もない政策だったことだ。
このため、主要メディアの報道によると、自民党税調の宮沢洋一会長は報道各社のインタビューに対して、
「これまで企業はボーナスを上げることで賃上げ税制の基準をクリアしてきたが、一回だけですまさずに、基本給がしっかり上がっていくことで経済が成長していくシステムをつくりたい。制度の対象を、基本給を上げた企業を軸とする方向で議論する考えだ」
などと語っている。
「アメとムチ」より「北風と太陽」の太陽を!
こうした岸田文雄政権の「賃上げ」を目指す動きを、エコノミストたちはどう見ているのだろうか。
すでにアベノミクスで失敗している「税優遇政策」をもう一度行なっても効果が期待できないとするのは、経済評論家の門倉貴史氏だ。ヤフーニュースのヤフコメ欄で、こう指摘する。
「企業への賃上げ要請や賃上げした企業への法人税優遇措置は、すでにアベノミクスで実行されている。アベノミクスでうまくいかなかった政策を継続しても、大きな効果は期待できないのではないか。
仮に、政府の賃上げ要請に応じて企業が従業員の賃金を引き上げたとしても、短期的には賃金を引き上げた分だけ将来の収益見通しが悪化してしまうため、企業は新規の設備投資を抑制するようになるだろう。結果として、日本経済の潜在成長率(中長期的に達成可能な成長率)を押し下げてしまい、岸田内閣が描く『成長と分配の好循環』にはつながらない可能性が高い」
と予想するのだった。
野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏も、「税優遇では持続的な賃上げは起こせない」(11月19日付)で、岸田政権が目指す「基本給の引き上げ」が税優遇の条件になった場合、かえって逆効果だと批判する。
「今回の改正で、基本給の引き上げを新たに要件とすれば、賃上げ効果はむしろ小さくなってしまうのではないか。ひとたび基本給を引き上げれば、再度引き下げることは難しくなり、また年金・保険料の会社負担などのフリンジ・ベネフィット(編集部注:fringe benefit=企業が従業員に提供する交通費や住宅・子弟教育の補助などの給与以外の経済的利益)も押し上げて、中長期的な固定費の増加につながる可能性がある。それは、経済環境次第では企業の収益を大きく圧迫しかねない。企業は基本給の引き上げに慎重なのである。
企業は、仮に一時的に税制面で優遇措置を得られても、将来の成長に自信が持てなければ、賃金、特に基本給の大幅な引き上げは行わない。税制面での優遇措置、いわゆる『アメ』で企業の賃上げを簡単に促すことができると政府が考えているとすれば誤りである。企業は目先の利益ではなく、中長期の経営環境を踏まえて、慎重に賃金政策を決定している。税制面の優遇措置は、いわば小手先の対応である」
そして、木内氏はこう結ぶのだった。
「政府は直接賃金を引き上げるように、『アメとムチ』の双方から企業に働きかけるのではなく、企業が自ら賃上げを行うような環境を整えることこそが重要だ。そのためには、成長戦略や構造改革を通じて企業の成長期待を高める必要がある。『北風と太陽』の寓話でいえば、『太陽』の政策がより重要となるのである」
「小手先の税優遇ではなく、成長戦略を示せ」
また、「小手先の税優遇ではなく、成長戦略を示せ」という点では、東京財団政策研究所研究主幹の森信茂樹氏も木内氏と同じ意見だ。税務・会計の情報サイト「Profession Journal」(11月4日付)に掲載した「monthly TAX views -No.106- どうなる賃上げ税制」の中で、アベノミクスによって2013年に導入された「所得拡大促進税制」以降の「賃上げ税制」の歴史を振り返りながら、こう述べた。
「このような減税措置にもかかわらず、わが国の賃金はここ30年間ほぼ同額で、今や韓国を下回る水準となった。賃金の伸び悩みという現象は、わが国の経済構造と深く関連しており、税制で小手先の措置を講じても大きな効果はないということを示している。
『新しい資本主義』『分厚い中間層』を標榜する岸田政権は、これまでの総額を対象とした税制に変えて、『一人一人の賃金を引き上げた場合に税制優遇が得られる仕組み』とする意向を示し、指示を受けた経産省・財務省は具体的設計の検討に入っている。
これに期待する向きがある一方で、企業の賃金構造、賃金体系は、企業の長年の経営を踏まえて決定してきたもので、『減税をするからハイ、賃上げ』とはいかない。とりわけ中小企業が賃上げに踏み切れないのは、賃上げの余裕がないということに尽きる」
また、現実問題として、一人ひとりの賃上げ状況をどうやって把握するのか、という疑問を投げかけた。
「一人ひとりの賃上げについて、税務職員が賃金台帳でチェックするような制度が果たして執行可能なのだろうか。加えて、そもそも企業の賃金体系にまで政府が口を出すというやり方が、『新しい資本主義』なのかという疑問もある」
そして、やはり「成長戦略こそ賃金上昇の王道だ」と提案するのだった。
「賃金の上昇を図るには、企業・従業員の生産性を向上させること、そのためには企業が将来の成長を予測できる成長戦略を提示し、国民の将来不安を軽減させる社会保障の将来像を示すこと、従業員の人的資本の向上を図るべくリスキリングやリカレント教育などを充実させる政策の導入など、よりベーシックな分野での政府の政策を見直していくことが必要ではないだろうか。岸田政権の『構え』は大きくしてほしいものだ」
税制と社会保険制度の縦割りを超えれば...
一方、「賞与ではなく固定給の引き上げが実現するなら、賃上げ税制も一定も効果が期待できる」とするのは大和総研の「賃上げ税制の実効性を高めるには『固定給』の引上げがカギ」(11月18日付)だ。金融調査部主任研究員の是枝俊悟氏ら3人のエコノミストは、アベノミクス下で行われた「賃上げ税制」にはそれなりの経済効果があったとしている。
「2013年度に創設された賃上げ税制は、2019年度にかけて年あたり約0.6兆円の名目雇用者報酬の引き上げに寄与したと試算される。もっとも、企業は本制度を利用して賞与を引き上げるケースが多く、所定内給与などの固定給の引上げにはつながりにくかった」
つまり、これまでは企業が基本給などの引き上げよりも、賞与の支給による減税を目ざしたために賃上げの実効性があまりなかったが、今後、基本給を引き上げれば賃上げが消費の拡大を生み出し、経済効果も上がると、こう続ける。
「短期的には賞与の引上げよりも固定給の引上げが個人消費の増加に寄与する。仮に新たな賃上げ税制の減税額を過去最大規模の0.4兆円と仮定し、それがすべて固定給の引上げにつながった場合、約0.6兆円の消費拡大をもたらす試算結果となった。賃上げが消費へと回り、それがさらに企業収益となるという『成長と分配』の好循環をもたらすかのカギは固定給の引上げにあるといえる」
そして、岸田政権が目指す「一人ひとりの賃上げについて税務職員が把握するシステム」についても、次のような「解決策」を提案している。
「社会保険制度(厚生年金や健康保険制度)における申告書や決定通知を用いれば、個人別の前年度比の給与の増減を企業および税務当局の双方が容易に捕捉・判別できる。税務だけでなく社会保険におけるデータも活用しつつ、実効性の高い制度設計を行うことが望まれる」
これまでは、税制は税制の枠内、社会保険制度は社会保険制度の枠内で制度設計が行われてきた。今後は、デジタルも活用し、縦割りの弊害を乗り越えて所得情報を相互に利用すればよい、というわけだが、果たして企業が基本給の上昇を飲むかどうかがカギになりそうだ。
(福田和郎)