「まるで古代ローマ時代のパンとサーカスのようだ」
財務省の矢野康治事務次官(58)が、岸田文雄首相の経済政策や与野党の選挙公約を「人気取りのバラマキだ」として公然と批判する投稿を、月刊誌「文藝春秋」(2021年10月8日発売)に寄せた。
現役トップ官僚が、政権を批判するのは極めて異例だ。本人は「間違ったことを正すのは公僕の務め」と主張するが、この突然の「反乱」の裏に何があるのか。財務省が狙う「コロナ増税の布石」という見方がもっぱらだが......。
高市早苗政調会長「大変失礼な言い方だ」
10月14日の衆議院解散を間近に控えた大詰めにきて、突然勃発した財務省事務次官の「反乱」を読売新聞(10月9日付))「矢野財務次官『バラマキ合戦だ』... 衆院選・総裁選での経済対策論争を批判、財政破綻への懸念示す」が、こう伝える。
「寄稿では、総裁選などで数十兆円規模の経済対策や基礎的財政収支の黒字化目標の先送りなどが議論されたことに触れ、『国庫には無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてくる』と指摘した。『昨春の10万円の定額給付金のような形でお金をばらまいても、日本経済全体としては死蔵されるだけ』と批判した。鈴木俊一財務相は8日の閣議後記者会見で、矢野氏の寄稿は麻生太郎前財務相の了解を取っていると明らかにし、『個人の思いをつづったと書いている。問題だと思っていない』と述べた」
直属の上司である鈴木財務相は「個人の意見だから問題ない」とかばったようだが、岸田文雄首相をはじめ、政権・与党幹部がみな激怒した。
時事通信(10月10日付)「財務次官に政府・与党が不快感 岸田首相『協力してもらわないと』」が、こう伝える。
「岸田文雄首相はフジテレビ番組で『議論した上で意思疎通を図り、政府・与党一体となって政策を実行していく。いったん方向が決まったら協力してもらわなければならない』とクギを刺した。
公明党の山口那津男代表は記者団に『政治は国民の生活や仕事の実情、要望、声を受け止めて合意をつくり出す立場にある。役割は極めて重要だ』と指摘。財源の制約などを『考慮しながらわれわれも行っている』と反論した」
なかでも、最も怒りをあらわにしたのが、自民党の高市早苗政調会長だった。日本経済新聞(10月10日付)「高市氏、財務次官は『失礼』『デフォルト起こらない』」によると、10日のNHK番組で、矢野次官が与野党の経済政策を「バラマキ合戦」と指摘したことを「大変失礼な言い方だ」と批判した。
「『基礎的な財政収支にこだわって本当に困っている方を助けない。未来を担う子供たちに投資しない。これほどばかげた話はない』と主張した。高市氏は財政規律について『岸田文雄首相は単年度主義の見直しを唱えている』と述べた。『一時的に国と地方の基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)について凍結に近い状況が出てくる』と説明した。政府は2025年度にPBを黒字化する目標を掲げる」
そして、矢野次官が主張する「国家財政の破たん」については、こう反論した。
「高市氏は日本の国債に関して『自国通貨建てだからデフォルト(債務不履行)は起こらない』と話した」
矢野氏は財務省内有数の財政健全化論者
国家財政を預かる現役トップ官僚でありながら、政権に立てつくような投稿をした矢野康治財務次官とは、どういう人物なのだろうか――。
1985年に一橋大学経済学部卒で、税の徴収を担当する主税局を中心に歩いてきた。財務省内でも厳格な財政再建論者として知られ、「原理主義者」と評されることもあるという。今年7月に次官に就任したが、歴代、東京大学卒で予算を編成する主計局畑出身者が次官を務めてきた財務省では、極めて異例の人事という。
その人事の背景を、経済紙「財界オンライン」(7月9日付)の「財務次官に主計局長の矢野氏 組織立て直しと菅政権下支えが課題」が説明する。矢野次官は、2012~15年に当時官房長官だった菅義偉前首相の秘書官を務めた「側近中の側近」だったとして、こう続ける。
「矢野氏の次官抜擢の背景について、有力次官OBは『部下からの人望が厚い矢野氏をトップに据えることで組織の立て直しを図る狙いがあった』と解説する。同省では近年、公文書の改ざん問題や元次官のセクハラ発言問題などスキャンダルが相次いだ。しかも、安倍晋三前政権下では、経産省出身官僚に税制や予算まで政策決定の主導権を握られた。
その結果、主計局を中心に現場の士気は著しく低下。そこで昨夏の人事で、省内でも有数の財政健全化論者の矢野氏を次官待ちポストの主計局長に抜擢し、省内の不満解消を図った。コロナ禍に対応した経済対策に伴い財政赤字は一段と膨らんでおり、年内には財政健全化目標の見直しも予定されている。『官房長官秘書官時代から、物おじせず諫言してきた』といわれる矢野氏。次官としてコロナ対策の巨額赤字を埋め合わせる特別増税などに道筋を付けられるか、真価が問われそうだ」
なるほど。財務省としては「特別増税」の道筋をつける「剛腕の切り札」的な人物のようだ。
では、そんな矢野次官が、「文藝春秋」にいったいどのようなことを投稿したのだろう。「文藝春秋」(2021年11月号)「財務次官、モノ申す『このままでは国家財政は破綻する』」=メイン画像を参照=によると、やむにやまれぬ「大和魂」にかられたからだと、こう指摘する。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。
数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」
そして、自分は「国家公務員は『心あるモノ申す犬』であらねばと思っています。不偏不党を貫き、相手が政治家の先生でも役所の上司でもはっきり言うようにしてきました」と続けるのだ。
心ならずも恥ずべき財務省の公文書改ざん問題では、自分自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱は忘れたことがない。「『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。そのうえで、『勇気を持って意見具申』せねばならない」として、日本の現状をタイタニック号にたとえるのだった。
「日本は氷山にぶつかるタイタニック号」
「今の日本の状況をたとえれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
それなのに衆院選を控えて、各政党は古代ローマ時代の「パンとサーカス」のように大盤振る舞いを競い合う。日本の財政赤字はバブル崩壊後、悪化の一途をたどり、「一般政府債務残高/GDP」は256.2%と、終戦直後の状態を超えて過去最悪。ほかのどの先進国よりも劣悪な状態だ。
ちなみに、ドイツは68.9%、英国は103.7%、米国は127.1%だ。
さらに、矢野次官はこう続ける。
「国民は本当にバラマキを求めているのでしょうか。日本人は決してそんなに愚かではないと私は思います。日本人みんなが『カネを寄こせ』と言っているかというと、そうではない」
実際に、国内では家計も企業もかつてない『カネ余り』状況にある。企業では、内部留保や自己資本が膨れ上がっており、現預金残高は259兆円(2020年度末)にものぼる。
「コロナ禍にあっても、マクロ的には内部留保のうち現預金が減っていません。また家計においても、最も低い所得階層を含むすべての階層で貯蓄が増えています」
と、このような経済状況では昨春のように10万円の現金給付のようにお金をバラまいても、死蔵されるだけで意味のある経済対策にほとんどならないというのだ。
まだある。岸田政権などが掲げる大規模な補正予算も逆効果だと指摘する。
「『大幅なGDPギャップを埋めるためには大規模な補正予算が必要だ』という声も聞かれますが、どんなに追加の歳出を計上しても、実際に最終消費や投資に回されなければ、需要創出につながらず、GDPギャップは一向に埋まらないのです。そればかりか過剰な給付金や補助金は、かえって企業の競争力を削ぐことになり、日本経済の活力をも劣化させてしまいます。『コロナ禍なのに、過剰だなんて何を言っているんだ!』と言われそうですが、国際的に見て日本が相対的に甘美なことを続けていると、日本の競争力はますます欧米と水を開けられてしまいます」
といった、シビアな「直言」が続く。
そして、「心あるモノ言う犬」の一人として、将来必ず日本は氷山に衝突するという「不都合な真実」を国民に知らせて関心を高めたうえで、財政再建に取り組んでいきたいと結ぶのだった。
「本当に困っている世帯への現金はバラマキでない」
インターネット上では、今回の矢野次官の投稿内容について、猛反発が起きている。ヤフコメでは経済の専門家などからも賛否両論の意見が。
日本総合研究所調査部マクロ経済研究センター所長の石川智久氏は、論議が起こることに、賛意を示した。
「さまざまな意見があることはとても良いことです。財務省として意見を示すことは建設的な議論になると思います。一方で、海外では成長につながりそうなデジタルやグリーン関連、医療関係には巨額の政府資金を投じて競争力を強化しようとしています。
そうしたなか、日本でも成長産業支援や次世代を担う人材育成については、ある程度財政資金を投じる必要があるでしょう。世界で最悪レベルの財政であるわが国においては、無駄使いは徹底的に排除する一方で、成長分野には資金を投じる、まさに賢い財政支出が求められます」
東洋大学ライフデザイン学部准教授で介護支援専門員の高野龍昭氏も、矢野次官の投稿内容に一定の賛成を示した。
「我が国の政府の財政(一般会計)の悪化を招いている最大の要因は、社会保障関係費の歳出が伸びているためです。バブル期以降の歳入(税収)の停滞にあわせ、人口の高齢化に伴う年金・医療・介護などの高齢者が受益者となることの多い社会的施策への歳出の増大が求められたことが主因で、そこに対してどの政治家も処方箋を示してこなかった実態は否定できません。
岸田政権では介護や保育などの従事者の処遇・給与等に直結する『公定価格』を引き上げたいという政策を打ち出しており、とても重要なポイントですが、そのための財源確保の方策が示されなければ、矢野次官のコメントのように『バラマキ』となる懸念があります。新政権の対処策に注目したいと思います」
一方、エコノミストで経済評論家の門倉貴史氏はこう反論した。
「全国民に10万円を支給したり、18歳以下のすべての国民に10万円を支給したりするなど、生活の困窮度合に関わりなく一律に、あるいは年齢を基準に現金を給付するような政策は、財政支出に見合う経済効果が期待できないので(給付金の多くが消費ではなく貯金に回ってしまうため)実施すべきではない。
しかし、本当に経済支援を必要としている世帯に現金を給付するのは、消費の拡大にもつながり、財政支出に見合う経済効果が期待できるのではないか」
なぜ麻生・鈴木の新旧財務大臣が投稿を認めた?
金融アナリストの久保田博幸氏は、このタイミングでの投稿の狙いを探る。「国民は本当にバラマキを求めているでしょうか。日本人は決してそんなに愚かではないと私は思います」と、文藝春秋に寄せた矢野次官の発言に、「これは私の経験からも感じている」としながら、
「このタイミングで財務省の事務次官がバラマキ政策の徹底批判を行ったことは興味深い。麻生太郎前財務相もこれ(投稿)を止めることはせず、現在の鈴木俊一財務相も中身は問題だと思わないとの考えを示した。すぐに緊縮財政をしろというわけではない。バラマキ型の経済対策では効果どころか、債務状態のさらなる悪化など副反応のほうが怖いことを示し、少なくとも財政規律を守る姿勢を維持すべきとしていると思われる。いまさらながらではあるが、バラマキ合戦はやめるべきである」
と見る。
また、一般の人々からは猛反発が起こっている。ヤフコメにはこんな声が寄せられていた。
「財務事務次官らしい素晴らしいコメントです。財政再建、財政健全化。すべて増税への理由付けです。(投稿では)日本の借金は大々的に報じますが、借金に匹敵する規模の日本国資産について報じないあたり増税推進派の財務省事務方トップらしいです」
「事務次官、コロナ税でも出したいのでしょう。国債が多いのはわかるが、まだ資産も多いですから。ふつう借金を考えるとき、資産も考えるのですが、財務省って『借金で、てえへんだ』と騒ぐ割に資産があることを黙って税金を上げるのが今までの常套手段。それに騙され30年、ついに日本の経済は停滞し続けて貧乏になりました。国債って日本銀行が発行するので、海外と違ってハイパーインフレしないし、むしろ今は税金を下げて経済を回す時です。なぜ国民が選んだ議員に対して官僚が上から目線で、雑誌に掲載するのだろうか」
「財務省のトップが、家計や一企業レベルの視点から国家経済を観ているというお粗末さを露呈した。家計や企業は、収入と支出で経済を観ているが、国家は、日本円経済圏を全体として観るべきであり、政府の収支ではなく、国家においてどれだけお金をぐるぐる速やかに円滑に回すか、回りやすい環境を整えるかに一意専心しなければならない。とどのつまり、GDP=国内総生産=国内総所得(分配)=国内総支出なのだから」
(福田和郎)