2008年のリーマン・ショック後、ソニーグループ、パナソニック、日立製作所は数千億円規模の巨額赤字に沈んだ。それから約10年。2021年3月期決算で3社の経営再建の明暗ははっきり分かれた。
ソニーは純利益1兆1718億円、日立はEBITDA(利払い・税引き・償却前利益)1兆3430億円を上げて過去最高益を達した一方、パナソニックの売上高は7兆円の大台を切り、純利益は1651億円と、ソニーグループのわずか7分の1にとどまった。
本書「ソニー再生」(日本経済新聞出版)は、12年3月期、5000億円を超える大赤字の中でソニー社長の重責を引き受け、みごとに再生を成し遂げた「異端」の前社長、平井一夫氏が書いた経営哲学の書である。
子供時代のことからドキュメンタリータッチで書かれており、よくできたエンターテイメント小説にようにすらすら読めてしまう。5万部を突破したベストセラーになったのもうなずける。
「ソニー再生」(平井一夫著)日本経済新聞出版
子会社のレコード会社が振り出しだった
平井氏の略歴はかなり異色だ。国際基督教大学(ICU)を卒業し、1984年に入社したのはソニーの子会社、CBS・ソニーだった。好きな音楽を仕事にしたいと飛び込んだ音楽業界。海外からやって来るアーティストの売り込みに奔走したり、通訳にかり出されたりする毎日で、離れたところに本社があるソニーは親会社だという意識さえなかったという。
その後、ソニーの変革を含め、3度の事業再生に携わったが、いずれの場合も社員との信頼関係を築き、困難に立ち向かうためにはリーダーのEQ(心の知能指数)の高さが求められることを痛感したそうだ。戦術や戦略だけでは、組織をよみがえらせることはできない、と書いている。
そのベースになっているのが、少年時代から日本と海外で何度も転居し、常に「異邦人」として見られてきた体験だという。ソニー本体の社長に就任してからも、こんなバッシングにさらされてきた。
「エレキ(電機)がわからない平井に社長が務まるハズがない」
「ソニーがテレビをやめるか、平井が辞めるか。どちらが先になるか見ものだな」
「そろそろソニーはアップルに買収されるんじゃないの」
「リストラ続きの『人切りソニー』に未来なし」
ソニーの経営トップを退いてから3年。現在はソニーグループのシニアアドバイザーである平井さんには、「どうやってソニーを復活させたんですか?」という質問がいまでもあるそうだ。
事業の「選択と集中」や商品戦略の見直し、あるいはコスト構造の改革などとメディアは分析しているが、核心はそこではないという。冒頭にこう書いている。
「自信を喪失し、実力を発揮できなくなった社員たちの心の奥底に隠された『情熱のマグマ』を解き放ち、チームとしての力を最大限に引き出すこと」
そのために、社員と徹底的に話し合うエピソードがいくつも披露されている。が、その前に平井さんの平社員時代の話を。
CBS・ソニーに入社した平井さんは、同期入社の女性社員と結婚すると、東京・市ヶ谷のオフィスから遠く離れた栃木県宇都宮市に自宅を買い、新幹線で通勤したというから、相当変わっている。
入社10年目の1994年、ニューヨーク行きを上司から告げられた。海外生活はうんざりだったが、従うしかない。太平洋を渡って生活の場を変えるのは、じつに7度目だった。東京での係長という肩書から、ニューヨークではゼネラルマネジャー(GM)になったが、駐在員は平井さん一人で、なんでも屋だった。
プレイステーションとの出会いが転機に
「プレイステーションを手伝って」と言われ、軽い気持ちで応じたのが、会社員人生の最大のターニング・ポイントになった。ソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカ(SCEA)があるのは西海岸のサンフランシスコ郊外の街だった。
ところが、SCEAは指揮命令系統がバラバラでカオス状態。35歳で実質的に経営を任せられることになった。会社は組織として機能せず、足の引っ張り合いが続いていた。社員の話を聴くうちに「俺の仕事はセラピストか?」と自嘲したくなったという。
経営層のリストラから始めた。「つらい仕事こそリーダーがやる」というのが平井さんの後々までのポリシーだ。少なくともマネジメントの一員として自分より先輩には、直接会って一対一で「卒業」を宣告した。
業績が上がり、ある日、あやふやな平井さんの身分が問題になった。出向なのか駐在員なのか。平井さんは退路を断った。ソニーミュージックを退社してSCEAに転籍。99年に同社社長兼COOとなった。そして2006年には東京のソニー・コンピュータエンタテインメント本社の社長兼COOに。前任者が退職し、翌年にはCEOも兼ねることになった。
背景には「プレイステーション3」の立ち上げ失敗があった。作れば作るほど赤字になり、2300億円の赤字となった。部長レベルを集めてランチ会を頻繁に開き、声を聴いた。ゲーム機だという基本を確認し、コストダウンに挑んだ。ゲーム機の重さは1.8キロ軽く、2万円安くした。発売から3年半後の2010年3月、プレイステーション3はついに逆ザヤを解消し、利益が出るようになった。
そして、2012年。平井さんはソニーの社長になった。エレクトロニクスが不振で、過去最大の赤字になっていた。平井さんはソニーの向かうべき方向を「KANDO」のひと言で表すことにした。
それを全世界の社員に伝えるため、再び世界を回る旅に出た。在任中の6年間、毎月1度は世界のどこかの町でタウンホールミーティングを開いた。「お客様に感動を与える製品やサービスをみんなで創り出そう」ということを伝えた。
パソコン事業「VAIO」のやリチウムイオン電池部門の売却など、つらい決断もあったが、先送りしなかった。ノスタルジーと決別して全事業を分社化。2018年4月、バトンを後任に渡した。
月に一度、シニアアドバイザーとして出社するが、ビジネスの世界からは身を引いた。そして、子供の貧困や教育格差の解消に取り組む活動に取り組んでいる。
出世競争とは無縁の人だったからこそ、信念を貫いた経営ができたのだろう。久しぶりに感動と読み応えのあるビジネス書に出会った思いがする。
「ソニー再生」
平井一夫著
日本経済新聞出版
1760円(税込)