ソニー再生を実現したのは子会社出身の異端児だった!

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プレイステーションとの出会いが転機に

   「プレイステーションを手伝って」と言われ、軽い気持ちで応じたのが、会社員人生の最大のターニング・ポイントになった。ソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカ(SCEA)があるのは西海岸のサンフランシスコ郊外の街だった。

   ところが、SCEAは指揮命令系統がバラバラでカオス状態。35歳で実質的に経営を任せられることになった。会社は組織として機能せず、足の引っ張り合いが続いていた。社員の話を聴くうちに「俺の仕事はセラピストか?」と自嘲したくなったという。

   経営層のリストラから始めた。「つらい仕事こそリーダーがやる」というのが平井さんの後々までのポリシーだ。少なくともマネジメントの一員として自分より先輩には、直接会って一対一で「卒業」を宣告した。

   業績が上がり、ある日、あやふやな平井さんの身分が問題になった。出向なのか駐在員なのか。平井さんは退路を断った。ソニーミュージックを退社してSCEAに転籍。99年に同社社長兼COOとなった。そして2006年には東京のソニー・コンピュータエンタテインメント本社の社長兼COOに。前任者が退職し、翌年にはCEOも兼ねることになった。

ソニーグループのホームページより
ソニーグループのホームページより

   背景には「プレイステーション3」の立ち上げ失敗があった。作れば作るほど赤字になり、2300億円の赤字となった。部長レベルを集めてランチ会を頻繁に開き、声を聴いた。ゲーム機だという基本を確認し、コストダウンに挑んだ。ゲーム機の重さは1.8キロ軽く、2万円安くした。発売から3年半後の2010年3月、プレイステーション3はついに逆ザヤを解消し、利益が出るようになった。

   そして、2012年。平井さんはソニーの社長になった。エレクトロニクスが不振で、過去最大の赤字になっていた。平井さんはソニーの向かうべき方向を「KANDO」のひと言で表すことにした。

   それを全世界の社員に伝えるため、再び世界を回る旅に出た。在任中の6年間、毎月1度は世界のどこかの町でタウンホールミーティングを開いた。「お客様に感動を与える製品やサービスをみんなで創り出そう」ということを伝えた。

   パソコン事業「VAIO」のやリチウムイオン電池部門の売却など、つらい決断もあったが、先送りしなかった。ノスタルジーと決別して全事業を分社化。2018年4月、バトンを後任に渡した。

   月に一度、シニアアドバイザーとして出社するが、ビジネスの世界からは身を引いた。そして、子供の貧困や教育格差の解消に取り組む活動に取り組んでいる。

   出世競争とは無縁の人だったからこそ、信念を貫いた経営ができたのだろう。久しぶりに感動と読み応えのあるビジネス書に出会った思いがする。

「ソニー再生」
平井一夫著
日本経済新聞出版
1760円(税込)

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