仮埋葬され、掘り起こされ、東京で火葬された遺体も
また、津波災害がもたらした遺体処理問題についても取り上げている。宮城県沿岸部では各自治体の火葬場も被災したため、遺体をいったん仮埋葬(土葬)し、再び掘り起こして他府県に搬送して火葬にするという措置も取られた。
宮城県の死者は9472人、行方不明者は1778人で、県内には22カ所の遺体安置所が設けられた。石巻市、東松島市、女川町の3市町で県内の50%以上の死者が発生したため遺体の火葬が追いつかず、仮埋葬(土葬)にせざるを得なくなった。
この作業を請け負った仙台市の葬儀会社・清月記が、「清月記活動の記録」を出版。同書と聞き取り調査から、その模様を明らかにしている。凄惨な記述だが、一部引用しよう。
「埋葬地で棺は木札に書かれた番号順に並んでいる。1日目は重機オペレーターが約1.5メートルの深さの土を掘り下げ、棺が見えると重機を止め、スコップなどで棺を傷めないように配慮しつつ丁寧に扱った。 長期間土中に置かれた棺はいずれも『水を含んだ粘土質の土圧によって棺は変形し、中に溜まった水や体液、血液が大量に流れ出て』くる状態だったという。こうした作業は酷暑の中で約3か月間続き、掘り起こした遺体は872体、火葬処置した遺体は665体であった」
東京都へ大量の身元不明遺体が搬送されたことも書かれている。東京都は被災地支援事務所を立ち上げ、支援要請などを受け付ける窓口を宮城県に設置し、火葬協力が必要になると判断。全国知事会からの協力要請を受けて、860体の遺体を受け入れ、火葬処理などを行った。こうした事実はあまり知られていないという。
死者、遺族には次なる問題が待ち受けていた。遺骨を埋葬すべき墓地とその管理を担う寺が流失・損壊・焼失し、埋葬できない事態が各地で起きたのだ。その実例を紹介している。
また、第Ⅱ部では「関東大震災の寺院被害と復興」「関東大震災と寺院移転問題」の2つの論考を収め、第Ⅲ部では1891年10月28日に発生し、死者7223人を出した濃尾地震と死者を供養する震災紀念堂について書いている。必ずしも直接に「死」を扱うものではないものの、東日本大震災以前の自然災害における大量死を社会はどのように捉え、どのように死者を葬ってきたのかを扱っている。