なぜ藩は領民を保護したのか?
幕藩体制の根本理念は、天下の領知権(国土領有権)を、天から天下人や将軍が預かり、彼らが器量に応じて領知権を諸大名に預ける、という「預治思想」にあった、と解説する。
天下統一後、諸大名は戦国時代とは違い地方社会に君臨する王ではなく、官僚として国務の一翼を担う存在と位置づけられた。このことを象徴する次のような文章がある。
「全国の大名家の中には、江戸時代を通じて10回以上も国替を経験した家があることが知られている。それが可能だったのも、城郭や武家屋敷が公儀(幕府)からの預かり物として位置づけられていたことによる。つまり城郭から武家屋敷に至るまでが、『官舎』として管理されていたのである」
藤堂藩では城郭や武家屋敷はもとより、町人屋敷に加えて百姓家屋までが管理されていた。「田畑は公儀の物」あるいは「公田」という理解だった。したがって、災害がおこれば、困っている百姓を救済するのは当然の使命だった。
領地領民を守り藩主との信頼関係を構築することこそ、支配の安定化に不可欠と認識したからだ。だが、それが次第に揺らいでいく。
「預治思想」に基づく幕藩体制において、定期的な移動である参勤交代や、不定期ではあるが国替や役職の移動が基本にあった。しかし、さまざまな災害が続き、その復旧に莫大な費用がかかると移動が妨げられた。