東京五輪・パラリンピックが2021年7月23日に開会式を迎える。新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期され、いまなお世界各地で猛威を振るっている中での開催に、さまざまな議論が巻き起こっているが、アスリートの活躍には応援の声を届けたい。そう思っている人は少なくないだろう。
そんなことで、7月はオリンピックとスポーツにまつわる本を紹介しよう。
オリンピックの開催の是非や「無観客」での開催にばかり関心が集まり、パラリンピックについては、あまり報道されていない。本書「1964年の東京パラリンピック」は、その大会がすべてのパラリンピックの原点になったとする本である。
「1964年の東京パラリンピック」(佐藤次郎著)紀伊國屋書店
1人の整形外科医が動いた
著者の佐藤次郎さんは、1950年生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部などをへて運動部に勤務。夏冬合わせて6回のオリンピック、5回の世界陸上大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任したのち、2015年退社。スポーツライター、ジャーナリストとして活動している。著書に「東京五輪1964」(文春新書)、「オリンピックの輝き」(東京書籍)などがある。
佐藤さんは長いスポーツ取材の中でもっぱら目を向けてきたのは、あまり注目されない競技やさほど目立たない選手だったという。1964年の東京オリンピックの直後に開かれた東京パラリンピックがあまり知られていないこともあり、取材に着手した。
そこで浮かび上がったのは、日本選手団の団長をつとめた中村裕医師の尽力ぶりだった。当時、大分県の国立別府病院整形外科科長だった37歳の青年が、なぜパラリンピックを実現したのか? 障害者スポーツの歴史から、解きほぐしている。
1960年夏、中村は英国・ロンドン郊外のアイレスベリーにあるストークマンデビル病院にいた。同病院の脊髄損傷センターを率いるルードウィヒ・グットマン博士の治療とリハビリは、重度の障害を負った人たちを驚異的な効率で社会復帰させていた。
その「秘密」を探ろうとやってきたのだ。医局員として勤務につきながら観察したが、特別な手術を施しているわけではなかった。医師や看護師だけでなく、当時まだ日本にいなかった理学療法士、作業療法士らにケースワーカー、就職斡旋の専門家までも加えたチームが、一人ひとりの患者に対して、最も適切な訓練や指導をていねいに施していくことが「秘術」の神髄だった。
もう一つ重要なことを発見した。グットマンの治療・訓練の中心に「スポーツ」があったのだ。「手術よりスポーツ」「身体障害者に最も有効な治療はスポーツである」が、グットマンの考えだった。
脊髄損傷で下半身不随になっても、ベッドに寝かせておくのではなく、なるべく早い時期から機能回復を目指すトレーニングを始めさせる。卓球や水泳、車いすバスケットボール、アーチェリーなど、さまざまなスポーツをリハビリに取り入れていた。当時の日本の医療では思いもよらないことだった。
やがてグットマンは、障害者にとってスポーツは治療やリハビリの方法だけにとどまらず、健常者と同じように競技としても成り立つのではないか、と考えるようになった。こうして医療の枠を超えた、「障害者スポーツ」という考え方が生まれたのである。
ロンドン五輪と同じ日に開かれた第1回の競技大会
グットマンは1948年7月29日、ストークマンデビル病院で16人の車いす選手が出場し、アーチェリー大会が開かれた。パラリンピックのルーツとされる第1回のストークマンデビル競技大会である。この日、少し離れたロンドンでは第14回オリンピックの開会式が開かれていた。「オリンピックの開会式と同じ日の開催となったのをグットマンが強く意識していたのは間違いない」と書いている。
その後、ストークマンデビル競技大会は、少しずつ出場者と種目を増やしながら発展していった。1960年、初めてイギリスを離れてイタリアのローマで開かれた。夏季オリンピックが開かれた都市で、オリンピック開催後に開くという形はこれが最初だった。23の国から400選手が参加したこの第13回は、国際パラリンピック委員会が設立されたのち、第1回のパラリンピックとして認定された。
さて、日本に帰国した中村は大車輪で動き始める。まず勤務していた国立別府病院で患者にスポーツを勧めた。1961年には「大分県身体障害者体育協会」を県とともに設立した。障害のある者は安静にしていなければならないという常識に反した行動に批判が集中した。
「身障者を公衆の前に引き出して、サーカスのような見世物をやろうというのですか」
「体調を崩して余病を併発する危険がある」
などというものだった。中村はひるまず、同年10月に第1回大分県身体障害者体育大会を開催した。だが、ほとんど黙殺されたという。
中村は「まずは騒がれなければならない」と東京のメディアに働きかけるとともに、62年、英国のストークマンデビル大会に日本選手を派遣しようと計画する。こうした動きは反響を呼び、池田勇人首相との面会も実現。身体障害者のオリンピックへ政府が協力する約束を取り付けた。
2部構成だった東京パラリンピック
1962年、「国際身体障害者スポーツ大会」の準備委員会が結成され、準備が進んだ。同大会は64年11月8日、開幕した。二部構成で、8日から12日までの第1部には、脊髄損傷による車いす選手が出場した。13回目となるストークマンデビル競技大会で、この第1部が、のちに第2回パラリンピック大会として認定された。
開会式で選手宣誓をした青野繁夫は、中国戦線で戦傷した傷痍軍人。時代はまさしくまだ、「戦後」だった。
続く13、14日には、脊髄損傷に限らない、さまざまな選手が出場する国内大会が第2部として開かれた。
欧米選手とのギャップに苦しみながらも、彼らの明るさにふれ、大きな刺激を国内選手が受けたことが紹介されている。
一連の大会は「国際身体障害者スポーツ大会」にして「国際ストークマンデビル競技大会」、通称として「東京パラリンピック」と呼ばれた。大会名誉総裁をつとめた皇太子殿下と同妃殿下(現・上皇殿下と妃殿下)の支援が大きかったという。
今回の東京五輪の開会を前に、同級生や障害者に対するいじめを過去の雑誌で発言していたミュージシャンの小山田圭吾さんが開会式の作曲担当を辞任した。パラリンピック開催もあって、官邸が強い危機感を持ったという。
57年前の東京パラリンピック。本書を読み、「障害者スポーツ」の祭典としてのパラリンピックの原点がここにあった、と知ることができるだろう。(渡辺淳悦)
「1964年の東京パラリンピック」
佐藤次郎著
紀伊國屋書店
1980円(税込)