2部構成だった東京パラリンピック
1962年、「国際身体障害者スポーツ大会」の準備委員会が結成され、準備が進んだ。同大会は64年11月8日、開幕した。二部構成で、8日から12日までの第1部には、脊髄損傷による車いす選手が出場した。13回目となるストークマンデビル競技大会で、この第1部が、のちに第2回パラリンピック大会として認定された。
開会式で選手宣誓をした青野繁夫は、中国戦線で戦傷した傷痍軍人。時代はまさしくまだ、「戦後」だった。
続く13、14日には、脊髄損傷に限らない、さまざまな選手が出場する国内大会が第2部として開かれた。
欧米選手とのギャップに苦しみながらも、彼らの明るさにふれ、大きな刺激を国内選手が受けたことが紹介されている。
一連の大会は「国際身体障害者スポーツ大会」にして「国際ストークマンデビル競技大会」、通称として「東京パラリンピック」と呼ばれた。大会名誉総裁をつとめた皇太子殿下と同妃殿下(現・上皇殿下と妃殿下)の支援が大きかったという。
今回の東京五輪の開会を前に、同級生や障害者に対するいじめを過去の雑誌で発言していたミュージシャンの小山田圭吾さんが開会式の作曲担当を辞任した。パラリンピック開催もあって、官邸が強い危機感を持ったという。
57年前の東京パラリンピック。本書を読み、「障害者スポーツ」の祭典としてのパラリンピックの原点がここにあった、と知ることができるだろう。(渡辺淳悦)
「1964年の東京パラリンピック」
佐藤次郎著
紀伊國屋書店
1980円(税込)