織田信長の天下統一の足掛かりになった戦いに、「桶狭間の戦い」があります。この戦いでは、2万数千とも4万とも言われる今川軍を、2000~3000の信長軍が打ち破り、大将の今川義元を討ち取ったと言われています。
信長の適切な判断力と運の強さによる勝利だったとみなされることが多いですが、どうだったのでしょうか。
「信長の経済戦略 国盗りも天下統一もカネ次第」(大村大次郎著)秀和システム
信長の機動力が今川勢を圧倒した
桶狭間の戦いには、「なぜ信長が天下統一をほぼ成功させることができたか」の秘密が多々隠されています。信長は、なぜ10倍以上もの敵を打ち破り、大将の首を挙げる大勝利を収めることができたのでしょうか。著者の大村大次郎さんは、次のような仮説を立てています。
「合戦中に大将が仕留められるというのは、戦国時代の無数の戦いの中でも、そうそうあるものではありません。今川義元は、今では凡将の代表のように言われていますが、実際は決してそうではありません。義元は、自分の代で三河(愛知県東部)や尾張(愛知県西部)の一部も切り取り、その版図を遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県中部)と合わせて100万石近くにまで広げています」
「義元は『東海一の弓取り』とさえ言われ、有数の強豪戦国大名だったのです。今川家は将軍をも輩出できるほどの名家でした。その名家の当主となった義元は、これまで争いを繰り広げてきた武田、北条とのあいだに同盟関係を結び、東側の憂いがなくなったところで、西に進出し瞬く間に三河の松平家(徳川家康の実家)を従属させます」
大村さんによれば、隣の尾張にまで侵攻をしはじめ、その過程で起こったのが、桶狭間の戦いであること。さらに、桶狭間で信長が勝利した最大の要因は、信長軍の「驚異的な機動力」であると述べています。
「桶狭間の戦いでは、信長軍は尋常じゃない機動力を発揮しているのです。信長軍は、永禄3(1560)年5月19日の早朝、清洲城を出発し昼過ぎには桶狭間にいた今川本陣を急襲しています。清須城から桶狭間付近までは直線距離にして20キロあります。当時は、舗装そうもされていない道なので、実際は数倍の距離があったはずです」
「また、清須城と桶狭間の間には、鳴海城、大高城じょうという今川方の城があるので、ここは迂う回かいしなければなりません。それを考えると、少なく見積もっても40?50キロはあります。その距離をわずか半日で踏破しているのです。秀吉の『中国大返し』以上の超強行軍といえるでしょう」