文豪の手紙には、面会の拒絶、借金の謝罪、亡き友への心からの追悼など、知られざる名文がたくさん残っています。
本書は、太宰や啄木など日本を代表する文豪の書簡から、「断謝離」をテーマに彼らの素顔がよくわかる名文を紹介した一冊です。
「文豪たちの断謝離 断り、謝り、離れる」(岡昭彦/編集、高見澤秀/編集)秀和システム
はっきり断りたいなら漱石に学べ
文豪中の文豪と言ってもいい夏目漱石は、ピシャリを言いつける文章に特徴があります。太宰治や芥川龍之介に比べて、金銭に苦労しなかったこともあり、特徴が際立っています。漱石の本名は夏目金之助です。現新宿区喜久井町(江戸牛込馬場下)に生まれます。夏目家は江戸の名主の家柄ですが、明治維新の混乱期にあって生家から養子に出されます。
幼少期から頭がよく、府立一中(現日比谷高校)に入学し、大学予備門(東京大学の予備機関)にも合格し、生涯の友となる正岡子規と出会います。その後、帝国大学英文科に進学します。しかし、このころから近親者が相次いで亡くなったことにより、厭世主義(世の中を悲観的に見る考え方)となり、神経衰弱に陥ってしまいます。
神経衰弱は現代の、うつ病、パニック障害、自律神経失調症などが該当します。英語の成績が抜群によかった漱石は大を卒業すると英語教師となり、松山中学校(現松山東高校)、第五高校(現熊本大学)で教鞭をとります。
1895年に結婚し、1900年に文部省からイギリス留学を命じられ、ロンドンに暮らします。しかし、このときに神経衰弱が悪化します。1903年に帰国後は、東京帝国大学と第一高校(現東京大学)の英語教師になります。
しかし、帝大の学生からは前任者・小泉八雲の留任運動を起こされ、一高では漱石が叱責した生徒が数日後に華厳の滝で入水自殺を果たすなど、神経衰弱の傾向がピークに達しました。その症状を和らげる気分転換のために書いた処女作が、「吾輩は猫である」です。
翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表します。その後、帝大を辞職し、朝日新聞社に入社して創作に専念、数々の傑作を残しました。
漱石の手紙に学ぶ断り方
ここで漱石の2つの手紙を紹介します。物言いがよくわかる手紙です。一歩間違えれば人間関係にヒビが入りそうな文面ですが、みなさまはどのように感じましたか。
借してあげる金はない
1909(明治42年8月3日) 飯田政良あて
御手紙拝見。
折角だけれども今借して上げる金はない。家賃なんか構やしないから放って置き給え。僕の親類に不幸があって、それの葬式その他の費用を少し弁じてやった。今はうちには何にもない。僕の紙入にあれば上げるがそれもからだ。君の原稿を本屋が延ばす如く、君も家賃を延ばし玉え。愚図々々いったら、取れた時上げるより外に致し方がありませんと取り合わずに置き給え。君が悪いのじゃないから構わんじゃないか。草々。
八月一日 夏目金之助
余は平凡尋常の人
1910(明治43年12月13日) 小宮豊隆あて
啓。だれと酒を飲んだとか、だれと芸者をあげたとかいふことは一々報知して貰はないでも好い。その末に悲しいとか、済まないとかいう事はなおさら書いてもらわないで可い。余は平凡尋常の人である。凡ての出来事を、平凡尋常の出来事として手紙に書いてくれる人を好む。早々。
本書は、文豪ファン、文豪好きの方向けに、12人の文豪が書き残した手紙を「断、謝、離」の3つに分け、文豪たちの本音を紐解きつつ、彼らの断り方、謝り方、別(離)れ方に学ぶという本です。ますます文豪が好きになることでしょう。(尾藤克之)