土佐藩の偽金作りに関与「龍馬はリアリストだった」
これほど大きな取引を仲介したにもかかわらず、ほとんど報酬をもらっていなかったという。経済的に行き詰ったところに、土佐藩の支援を受け、海援隊を立ち上げる。その意味について、こう書いている。
「龍馬ら隊士たちは、平時は船団を率いて貿易業などをおこない、戦争になれば海軍となり土佐藩を助ける」
「土佐藩は、隊士たちに給料を払ったり、船を提供したりするなどの便宜を図る」
海援隊の会計係になったのが、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎である。土佐藩の貿易を長崎でつかさどる土佐商会の事実上の責任者だった弥太郎が、海援隊の会計も取り仕切ることになったのだ。
二人は酒を酌み交わす仲で、弥太郎は明治維新以降、海援隊の船などを引き継ぎ、瀬戸内海の海運業を一手に引き受けることで、三菱財閥の基礎を築いたという。
この後、海援隊の運航する「いろは丸」が紀州藩の「明光丸」に衝突され沈没する事故が起こる。いろは丸の船体の額は4万両程度だったが、龍馬は武器などの積み荷の額を含めて7万両を紀州藩からせしめた。
いろは丸に武器が積み込まれた証拠はなく、「龍馬は積んでもいない物の賠償を請求したことになる」と書いている。
こうした行為のほか、龍馬が土佐藩に持ちかけた「偽金製造」計画についても詳しく触れている。当時、土佐藩だけでなく、偽金作りをしていた藩は十数藩に及ぶという。
幕府は「万延二分金」という金の含有量を従来の60%にした超劣化貨幣を大量に鋳造した。幕府だけが潤うのを見た諸藩も、これを真似ようとした。
その代表が薩摩藩だった。龍馬は薩摩藩が作った偽金を入手しようと密偵を送り込んだり、土佐藩が大坂の藩邸で、やがて国元で偽金作りをしたりした詳細が書かれている。龍馬に縁のある者たちが実行したという。
最終章の「明治新政府を支えた『龍馬マネー』」では、大政奉還の後、龍馬が福井藩から招いた由利公正が金穀出納所(のちの大蔵省)の責任者として、新政府の金策に当たった。明治2(1869)年の時点で、新政府は267万両の財政資金を得られた。現代の価値で約2000億円。「その金で、やっと戊辰戦争の戦費を賄うことができたのだ」。
「龍馬は、『勇気』や『大義名分』を語る前に、まず金の算段をする。戦争に勝つためには金がいる。その金をどうするかを考えなくては、戦争はできない」
お金に関して、きわめてリアリストだった龍馬の姿を知り、龍馬ファンがますます増えるかもしれない。
「龍馬のマネー戦略」
大村大次郎著
秀和システム
1650円(税込)