今年(2021年)のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一については多くの本が出ている。渋沢と同時期に農村で生まれ、裸一貫でのし上がった人物に三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎がいる。「公益重視」の渋沢栄一と「独裁主義」の岩崎弥太郎。大激論の末に決別した二人は、日本の海運業の覇権を争い、死闘を繰り広げる。
本書「渋沢栄一と岩崎弥太郎」は、日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学を比較した歴史書である。
「渋沢栄一と岩崎弥太郎」(河合敦著)幻冬舎
二人がつくった東京海上保険
二人の生い立ちから幕末における転機、1873(明治6)年、ともに実業界に入ってからの活躍と二人の歩みに沿って叙述している。著者の河合敦さんは1965年生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史)。東京都立高校の教師として教壇に立ちながら、歴史作家・歴史研究家として著作活動を続けた。著書に「岩崎弥太郎と三菱四代」(幻冬舎新書)、「殿様は『明治』をどう生きたか」(扶桑社文庫)など多数ある。
ともに幼少時は読書家で「偉人伝」を熟読した。横浜の外国人を皆殺しにしようとした23歳の「テロリスト」渋沢と、遊郭に通いつめ土佐藩の公金に手をつけた26歳の岩崎など破天荒なエピソードの持ち主でもある。
「第四章 栄一と弥太郎の邂逅と決別」に、二人の関係が詳しく書かれている。栄一の著書によれば、接触を図ってきたのは弥太郎のほうだったという。明治7年(1874)、弥太郎は社名を三菱蒸気汽船会社と改称し、拠点を大阪から東京に移した。日本橋南茅場町の会社から兜町にある栄一の事務所へは歩いて行ける距離だった。
渋沢は海上保険会社創設への協力を弥太郎に呼びかけた。弥太郎は資本金60万円のうち最高額の11万円を出資した。こうして1879(明治12)年、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険株式会社)が誕生した。
多くの株主を集めてスタートしたが、三菱の岩崎家がダントツの大株主だったことから、三菱出身者が会長を務め、1933(昭和8)年には三菱合資会社(三菱財閥本社)の傘下に入った。渋沢にとって「きっと不本意だったに違いない」、と書いている。
海上保険という共同事業を立ち上げた二人だが、栄一の回想によると、すぐに確執が生じ、大激論になった。河合さんは1880(明治13)年8月と推理している。
合本主義と独裁主義で大激論に
弥太郎から船遊びに誘われた栄一。酒宴で「今後の実業はどうしていくべきだろうか」と弥太郎に問われ、持論の合本主義を説いた。
合本主義とは、多くの人々から資金を募り、適任者を見つけて事業を委ねる手法だ。会社をワンマン経営したり株式を独占したりせず、経営が軌道に乗ると栄一は身を引いた。こうして生涯500社近くの企業設立に関わった。
対して弥太郎は、三菱の社則に「三菱商会は会社の形態をとるが、実際は岩崎家の事業であり、多数から資本を募って結社するのとは異なる。だから会社のことはすべて社長の裁可をあおげ」と記し、「独裁主義」を公言した。
弥太郎が日本の海運を独占するようになると、これを嫌った栄一は、三井物産の益田孝と結んで東京風帆船会社を設立し、三菱に対抗しようとした。これを阻止しようとしての酒宴の誘いだった。
酔いが回った弥太郎は「合本法は成立せぬ。もう少し専制主義で、個人でやる必要がある」(「岩崎彌太郎傳 下巻」)と言い出し、栄一が反論。大激論になり、栄一は芸者を全員引き連れて引き上げてしまった。
弥太郎は新会社潰しに奔走し、東京風帆船会社はほとんど開店休業状態になり、栄一はもろくも敗れ去った。
渋沢栄一のリベンジ
1882(明治15)年、大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生すると、政府は反政府政党である改進党の運営資金が三菱から出ていると考え、対抗することを考えた。西郷従道農商務卿は、新たな汽船会社の創設を政府に上申。栄一、益田孝ら三井系、関西財界の大物が参加し、共同運輸会社が誕生した。2年前のリベンジだった。
河合さんは、この会社の実態は「ある意味日本海軍といってもよかった」と書いている。株式組織だが、同社に与えられた政府の命令書には、会社に付与された船舶は海軍の付属とし、戦時や有事の際は海軍卿の命令で海軍商船隊に転じる規定があったからだ。社長、副社長には海軍軍人が就いた。三菱にとって存亡の危機が訪れたのだ。
両社は激しく競い合い、果てしのない廉価競争となった。乗客の奪い合い、スピード競争を繰り広げた。船の衝突事故も起きた。三菱は徹底抗戦したが、弥太郎が明治18年(1885)に胃がんで急逝。弟の弥之助が社長になり、共同運輸との合併を了承した。こうして日本郵船会社が誕生した。
岩崎家と渋沢家は和解し親戚に
弥之助は海運以外の小さな事業を集め、新会社、三菱社を設立。鉱山、炭鉱、造船、丸の内のビジネス街の建設などに尽力した。一門のための経営ではなく、国家の繁栄を経営理念とした。
栄一にも和解を申し入れ、日本郵船の取締役になってほしい、と依頼した。すでに日本郵船は三菱の傘下に入りつつあった。「この会社が岩崎家のものだと言われぬよう、かつて敵対した栄一に協力を求めたのだ」。
栄一はこれを快諾。その後、いくつも三菱と共同で事業を行った。1922(大正11)年には、跡継ぎである渋沢敬三の妻に、弥太郎の孫を迎えた。親戚になったわけだ。
栄一は回想録の中で、「私は個人として別に弥太郎氏を憎く思ったのではないのだが」と記し、周囲から持ち上げられて弥太郎との対立を余儀なくされたが、死ぬ前には仲直りしたかったようである、と河合さんは見ている。
岩崎弥太郎は後継者の育成に成功し、今も三菱を冠した企業は数多く残っている。合本主義を掲げながらも富豪となった栄一。ところが、後継者の育成に失敗する。長男、篤二は趣味の世界に走り、芸者にぞっこん。妻を家から追い出し、芸者を家に引き入れるとして醜聞になる。そして栄一から廃嫡される。
だが、栄一にも篤二を責める資格はなかった。栄一も妾を複数かかえ、屋敷の女中にも手を出し、隠し子も相当いた。そんな彼が世間に向けては道徳を唱えていたところに渋沢家の問題があった、と河合さんは指摘する。
大河ドラマでは、「英雄色を好んだ」栄一の性癖は、どのように描かれるのだろうか? 今から興味が尽きない。
「渋沢栄一と岩崎弥太郎」
河合敦著
幻冬舎
900円(税別)