岩崎家と渋沢家は和解し親戚に
弥之助は海運以外の小さな事業を集め、新会社、三菱社を設立。鉱山、炭鉱、造船、丸の内のビジネス街の建設などに尽力した。一門のための経営ではなく、国家の繁栄を経営理念とした。
栄一にも和解を申し入れ、日本郵船の取締役になってほしい、と依頼した。すでに日本郵船は三菱の傘下に入りつつあった。「この会社が岩崎家のものだと言われぬよう、かつて敵対した栄一に協力を求めたのだ」。
栄一はこれを快諾。その後、いくつも三菱と共同で事業を行った。1922(大正11)年には、跡継ぎである渋沢敬三の妻に、弥太郎の孫を迎えた。親戚になったわけだ。
栄一は回想録の中で、「私は個人として別に弥太郎氏を憎く思ったのではないのだが」と記し、周囲から持ち上げられて弥太郎との対立を余儀なくされたが、死ぬ前には仲直りしたかったようである、と河合さんは見ている。
岩崎弥太郎は後継者の育成に成功し、今も三菱を冠した企業は数多く残っている。合本主義を掲げながらも富豪となった栄一。ところが、後継者の育成に失敗する。長男、篤二は趣味の世界に走り、芸者にぞっこん。妻を家から追い出し、芸者を家に引き入れるとして醜聞になる。そして栄一から廃嫡される。
だが、栄一にも篤二を責める資格はなかった。栄一も妾を複数かかえ、屋敷の女中にも手を出し、隠し子も相当いた。そんな彼が世間に向けては道徳を唱えていたところに渋沢家の問題があった、と河合さんは指摘する。
大河ドラマでは、「英雄色を好んだ」栄一の性癖は、どのように描かれるのだろうか? 今から興味が尽きない。
「渋沢栄一と岩崎弥太郎」
河合敦著
幻冬舎
900円(税別)