2021年3月、多くの大学で卒業式が行われて、卒業生たちが巣立っていった。それぞれの大学の学長・総長たちが、社会の荒波に飛び込んでいった教え子たちに激励のエールを贈った。
ビートたけしさんの言葉、中島みゆきさんの歌、渋沢栄一や赤毛のアンのエピソード......。そして、女性差別への憤りや、コロナ禍だからこそ、どう社会と向き合っていくか、教え子たちを思う熱情にあふれていた。
J‐CASTニュース会社ウォッチ編集部が、独断で選んでみた。
大阪大総長「貧しい人に寄り添おう」
コロナ禍のなか、社会人としてどう生きたらよいか、期待と励ましを送る人が多かった。
現在、「安心・安全」という言葉が盛んに喧伝されているが、大阪大学の西尾章治郎総長は、その言葉の持つ「曖昧性」「偽善性」を疑うことから始めなさい、と訴えた。「『安全』とは、危険の程度が許容範囲内にあると客観的に保証される状態を指します。では『安心』とは何か。それは安全の程度を基にした個々の人間の主観に基づく信頼感覚です。たとえば、高層ビルや橋の上などの高い場所から命綱一本で飛び降るバンジージャンプを想像してみてください。ゴムの耐久性、ハーネスの強度、水面までの加速度計算すべてで『安全である』と評価されたからといって全員が跳び出せるものでしょうか」
と疑問を投げかける。
科学者は子細な実験データなどに基づいて、「事故の発生率0.02%」や「ワクチン副作用の発生確率は20万人に一人」といった形で安全性を客観的な指標で示す。しかし、西尾さんはその指標を科学者が市民に押し付けることは決してあってはならないと強調する。そして、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士の言葉を引用した。
「科学者の任務は、法則の発見で終わるものでなく、それの善悪両面の影響の評価と、その結論を人々に知らせ、それをどう使うかの決定を行うとき、判断の誤りをなからしめるところまで及ばなくてはならない」
朝永博士は原子物理学者として、自身の研究分野が原子爆弾の製造に加担してしまったことを強く後悔して、この言葉を残したのだった。 西尾さんはこう続けた。
「この言葉は科学者のみへの教訓ではありません。みなさんが社会に出て、企業や公的機関、医療機関など、あらゆる分野で市民に対して何らかの製品やサービスを提供する側に立つとき、この教訓は必ず当てはまります。みなさんには、『自分の役割はここまで』という壁を持たず、自分が提供する製品やサービスの客観的な『安全性』を超えて、市民一人ひとりに安心いただけるまで対話するのだ、という使命感と責任感を持ち続けてほしいと思います」
また、「安心」についてもこんなエピソードを語った。
「コロナ禍によって、私たちは暮らしにおける『安心』が普遍的ではないことを理解することになりました。生活困窮者の支援に奔走する人にネットカフェ暮らしだった若い女性が居場所を失い、連絡をしてきました。彼女をレストランにお連れすると、『ジュースが飲めるのがうれしい。甘いのは久しぶり』『もう首つるしかないと思ったのですが、私も人間なのですかね、生きたいと思ってしまった。それで連絡しました』。若い女性はこう話をしたそうです」
「その支援者は思いました。『こんな思いを若い人にさせていること、こんなことを言わせてしまっていることを、私たち年長者は心底恥じなければいけない』『コロナの災難が終った後に何も変わらなかったら、日本に希望など絶対にない』。社会には私たちが想像できないくらいの不安と絶望の中で、あがいている人がいることを忘れてはいけません。私たちが考える『安心』と、彼ら彼女らが切望する『安心』には大きな隔たりがあるのです」
そして、西尾さんは卒業生たちに、こう訴えた。
「みなさんは、街角でうつむいている人がいたら寄り添い、『大丈夫だよ』と声を掛けられる。あるいは、その人が立ち上がり、前を向くまで目の片隅にとらえておく。その程度の心の余裕を持っておくこと。これが社会の『安心』づくりの第一歩です。あなたが今日までに極めた専門分野は、じつはあなたが思っているより驚くほど狭い。しかし、あなたが想像するよりもはるかに深い。社会であなたの専門分野は必ず役に立ちます。自信をもって真の『安全・安心な社会』を作り上げましょう!」
同志社大学長「良心に恥じぬ生き方を貫いて」
コロナ禍のなかで、いわゆる「感染症文学」を取り上げた人が多かった。同志社大学の植木朝子学長はそんな1冊を手に、こう語りかけた。
「コロナ禍のなかで、日本の感染症文学として注目された1冊に、澤田瞳子さんの直木賞にノミネートされた『火定』(かじょう)があります。澤田さんは本学の卒業生で、『火定』は奈良時代の天然痘の流行に題材をとった歴史小説です」
物語は、貧しい人々の救済施設・施薬院と悲田院を舞台に進行する。新羅(編集部注:朝鮮半島にあった国)から伝わったと噂される謎の病の前で、人々は無力だ。施薬院と悲田院の医師たちは必死に感染症を食い止めようとするが、朝廷の医療機関・典薬寮は手を打たず、恐怖にかられた人々は怪しげな神にすがり、その信仰心を利用して詐欺を働き、儲ける者も出てくる。人々の憎悪は病の元とみなされた外国人に向かい、外国人虐殺が始まる。
植木さんはこう続けた。
「施薬院で一心不乱の治療を続ける医師・綱手は、死の恐怖に取りつかれて怖気づく同僚に次のように言います。『己のために行なったことはみな、己の命とともに消え失せる。だが、他人のためになしたことは、たとえ自らが死んでもその者とともにこの世に留まり、わしの生きた証となってくれよう。つまり、ひと時の夢にも似た我が身を思えばこそ、わしは他者のために生きねばならぬ』......」
そして、植木さんは卒業生に、こう呼びかけた。
「見捨てられた病人を必死に看護し、他者のために生きようとする綱手の態度は、本学の創立者、新島襄が育てようとした『一国の良心』ともいうべき人とつながるものでありましょう。卒業後、それぞれが赴かれるそれぞれの場所で、どうかその良心に恥じぬ生き方を貫いてくださいますよう、心から願っています」
ICU(国際基督教大学)の岩切正一郎学長は、カミュの『ペスト』の有名な場面から語り始めた。
春に始まったペストの蔓延によって、アルジェリアのオランという街が封鎖されてしまう。11月になっても収束の兆しは見えない。医師のリユーは淡々と献身的な診療に当たる。ある日、彼は友人のタルーと一緒に、夜の海へ泳ぎに行く。タルーが「自分たちは友情のために海水浴をするべきだ」と言ったからだ。彼らは通行許可証を持っていたので、検問を通過して海に行った。岩切さんが感動したのは、次の場面だという。
《彼らの前で、夜は無限だった。リユーは指の下に岩のでこぼこした相貌を感じ、奇妙な幸福でいっぱいになった。タルーのほうを向くと、友人の静かで生真面目な顔の上に、同じ幸福があるのを見抜いた。(中略)数分の間、彼らは同じリズム、同じ力強さで、波のなかを進んでいった。人々から遠く離れて、ついに街とペストから解放されて。(中略)また服を着ると、彼らはひと言もいわずにその場を離れた。けれどもふたりは同じ心になっていて、この夜の思い出は甘美だった》
岩切さんは、こう続けた。
「周りのみんながペストと戦っているとき、そんな自由を特権のように享受していいのか、という疑問は当然浮かぶでしょう。カミュは、自然と人間社会をあえて2つに分け、自然と一体になった、存在していることの喜びが、人間を、社会生活の悲惨や、さらには倫理的な意識から解放してくれるのだと言っているように思われます。とはいえ、それは社会的な規範から外れた振る舞いに見えるのも確かです」
「私は、人間らしくあることと、社会の規範に従うこととが相容れない瞬間があることを、みなさんに伝えておきたい。これから社会のなかで働き始めると、単純には割り切れない場面に遭遇することはいくらでもあります。困難な状況のなかで窒息しそうになったとき、何か自分を深いところで支えてくれるものに触れなければ自分が壊れてしまいそうなとき、みなさん自身のなかに持っている根源的なもの、自分に幸福をもたらすものに、触れにいって欲しいと思います。カミュの小説のなかの海のようなものに」
東京大総長「絵文字で共感力を養おう」
慶應義塾大学の長谷山彰塾長も、一見、利己主義に見える行動が自分と周囲の人々を救うことがあるのだという話を、東日本大震災の津波を通じて語った。
「『津波てんでんこ』という言葉が、東北の三陸海岸地方に伝わっています。『てんでんこ』とは、『各自』『めいめい』という意味で、『津波が来たら肉親にも構わずに、各自てんでばらばらに一人で高台へと逃げろ』ということです。この言葉は、1990年に岩手県で初めて開かれた全国沿岸市町村津波サミットの標語に選ばれて、広まりました。当時、『他人を救おうとせず、一人だけ逃げるのは利己主義だ』という批判がありました。しかし、現実には家族を探し回っているうちに津波に巻き込まれてしまいます。そんな悲しいことが何度もあったことを踏まえ、日ごろから住民同士で信頼関係を醸成したうえで、決めたことなのです」
長谷山さんは、一人だけいち早く高台に逃げることが、他の人々にも避難を促すことにつながる、また、危機に遭遇した時に、指示や命令がなくてもそれぞれが自らの判断で適切に行動することが、結局、みんなが助かることにつながるのだ、と強調した。それは、社会に出ても、上司の指示・命令を待たずに自分で考え、決断することの大切さにつながるとも語った。
「このことを考えると、福沢諭吉先生の『独立自尊』とは、決して『唯我独尊』、自分一人がよければいいということではなく、自らが自立し、自らを大切にすることが、他人を尊重し、他人の尊厳を守るという気持ちが生まれてくることになるのです」
「共感」の大切さを訴える人も多かった。
東京大学の五神真(ごのかみ・まこと)総長は、スマートフォンで使われる「絵文字」を取り上げて「共感力」の高い人になってほしいと強調した。
「みなさんはスマホでの日常のやりとりで絵文字を使いこなしているのではないでしょうか。微妙なニュアンスを伝えるのにも便利なこの新しい文字は、1999年に日本で開発され、絵文字が切り開く可能性に世界が注目しています。『emoji』という名で世界各国でも用いられ、2016年にはニューヨーク近代美術館に永久収蔵されています。その総数は3000字以上と言われ、常用漢字を超えています。言語学や情報学の真面目な研究対象にもなっています」
サイバー空間では生の感情がぶつかり合う炎上や、姿も顔も見せないままでのヘイトスピーチや排除の暴力が目立っているが、絵文字は豊かな感情を表現する「表感文字」である。
五神さんは、
「言葉本来が持つ触れあいの共感を復活させるものとなるのかもしれません。大いに活用しましょう」
と語ったのだった。
(福田和郎)