町長が明かした「事実」とは
三浦さんは浪江町の民宿で仮眠を取ってから配達に行った。前夜、酒を飲まずに民宿階下の居酒屋で帰還住民と雑談した。町の現実を伝える連載記事は、病気のため公務を長く休んでいた馬場有町長(当時)の目にもとまった。
原発事故と6年に及んだ全町避難について取材したいという申し出を、馬場氏は引き受けた。ただし、掲載は馬場氏が許可するか、万一のことがあった場合に、という条件が付けられた。新聞記者の職業倫理を逸脱する可能性もあったが、これを呑んだ。最初の取材のとき、馬場氏は自分ががんであることを打ち明けた。
そして、こう語った。
「今でも『原発事故による死者はいない』と言う人がいますが、あれは完全に間違いです。浪江町にはあの日、本来の情報が届いていれば、命を助けることができたかもしれない人がいた。それをどうしてもあなたに伝えて欲しくて......」
福島第一原発が危機的な状況になり、立地する大熊町と双葉町には通報したが、浪江町には伝えられなかった。10キロ圏外に避難するため、馬場は翌12日、町内の津島支所に入り、災害対策本部を開いた。全町民2万1000人のうち約8000人が津島支所周辺に避難した。
ところが、この判断が禍根を残すことになった。大量の放射性物質は北西方向に流れ、津島地区の上空で雨や雪に混じり、落下したのだ。国は「SPEEDⅠ」というシミュレーション・システムで可能性を把握していたが、「住民がパニックに陥る恐れがある」として、浪江町に伝えていなかった。
東電は避難を強いられた近隣の10市町村に一律2000万円の見舞金を送ったが、馬場氏は拒否した。拒否したのは浪江町だけだった。2017年1月、国が町中心部の避難指示を解除する考えを示すと、町民の意見は割れたが、馬場氏は帰還を決断した。その後、馬場氏は亡くなった。