移動を繰り返した仮役場
3月12日午後に役場から避難するときになって、東電の連絡員がファイルで鼻と口を隠しながら外に出てきたので、「こいつら放射能汚染を隠していたなとハッと気づいた」という。その直後に水素爆発の音を聞いた。それから西へ車で避難。田村市の総合体育館に開いた町の災害対策本部に入った。
この後、4月4日、大熊町の町民は100キロメートル離れた会津に移る。役場本体も会津若松市に移った。災害対策本部は殺気だった町民からの電話対応に追われた。「町長を出せ」とすごまれ、職員はストレスを抱え、耐えられなくなって退職したり休職したりする職員が増えていったという。
町にはいま、除染廃棄物の中間貯蔵施設が立地する。原発立地町民へのバッシングがあり、どうしても放射線量の高いところに中間貯蔵施設をつくらざるを得なくなった。最終処分場にしないこと、町民の放射線被曝のデータをつくることが副町長としての課題だったという。
「福島原発事故というのは世界最大の公害事案だ。国としては東電とともに事故処理に責任をもってあたり、海外に向けても正確な発信をしてほしい。きちんと検証して復興することになって、日本の国威はオリンピック以上にあがると思う」と話している。
一方、浪江町は福島第一原発から少し離れているが、中心部が10キロ圏内にあったから避難の対象になった。役場は原発から30キロ離れた支所へ移動。そこも危ないと、さらに20キロ離れた二本松市へ。住民がどっと押しかけ、収拾がつかなくなり、二本松市に合併した旧東和町役場を借りた。乗っ取ったような形になったが、「本当に感謝している」と宮口さんは話している。
正職員は160人いたが、事故直後は職場に来なかった職員が40人から50人いたという。そのうち30人ほどは高齢の親を置いておけないと避難した人たちだった。課単位では動けなくなり、課をばらして班単位にした。職員は精神的に参ったり、体を壊したりした。
仮役場は二本松市内の県施設に、さらにプレハブの建物に移った。復興予算が入り、事業は増えるが、職員の絶対数が不足。また退職者が多いので、管理職の承認も早くなる。年齢構成のバランスがいびつになり、職員のストレスも増したそうだ。