2011年の大災害からもうすぐ10年が経とうとしています。当時小学生だった子どもたちが成人になり、当時の記憶は薄れていく一方なのかもしれません。しかしそれは、当時の災害を歴史として見つめ直せるようになる時間とも言えます。
当時どんなことが起こり、私たちは今、改めてそこから何を学ぶのか――。10年目というのは、私たちの記憶を歴史に転換するために重要な節目だと考えています。その中で、私の専門でもある病院の被災について、振り返ってみようと思います。
病院被害の実際 その時、なにが起こったのか!
災害時の病院というと、多くの場合「被災者を助ける機関」と認識されがちです。しかし災害時には地域に根付く病院もまた被災し、その規模は他の施設や機関よりも甚大となり得ます。
その原因の一つはニーズの急増にあります。被災地の医療機関は、災害医療よりもむしろ日常診療の維持が課題となります。実際に災害支援活動の中で、「慢性疾患の処方」はかなりの負担となることがわかっています(注1)。
災害時に事業を継続するために、通常は業務の優先順位をつけ、不要な業務を停止させることが重要です。もちろん急性期病院であれば、救急外来や手術室、ICUなどが優先されることもあるかもしれません。しかし、多くの地域病院にとっては、入院中の高齢者、精神疾患などの慢性疾患患者、在宅診療などは、いずれの診療も個々人の命を預かるという点で優先順位づけができないのです。
もう一つの原因は、インフラの停止です。病院機能は医療の技術者だけで継続することはできません。医薬品や資材の補充、食事、清掃、リネン、エレベーターやボイラーを含む機器の安全点検、そして何よりもスタッフが生きるための社会インフラが全てそろっていなければ機能できないからです(注2)。しかし、被災地では当然物流や資源・人員が不足します。
「(原発から)30キロメートルに屋内退避指示が出ると、およそ50キロメートル圏には水・食糧・情報などは、何も入って来なくなった。情報を持っている公務員が先に避難をした、という噂も流れて、病院幹部が完全に浮き足立ってしまった」
というのは当時を振り返った医師の言葉です(注3)。
避難指示がない地域は公的な「支援の対象」からも除外されたため、避難区域のすぐ外縁の地域には物資が届かなくなり、医療スタッフの食料や通勤のためのガソリンすら足りなくなる状況となりました。
さらに一部の地域では、「患者の放射線被ばく線量を低減するために病床数や入院日数を制限するように」という指示も出されました。業務を続けた病院は避難した病院よりも補償が少額であるにもかかわらず、収益を得るための努力も許されないということです。当時の病院は(今でも一部の病院はそうですが)運営を続ければ続けるほど赤字となる、という悲惨な状況だったようです(注4)。