信用金庫は公益事業に尽くせ
――大学を卒業して城南信用金庫に入られました。
吉原さん「卒論は加藤先生にA評価を頂いたのですが、就活では苦戦しました。銀行の面接で志望動機を問われるたびに『社会の役に立つ公共的な仕事をしたい』と的外れな答えをしていたからです。銀行を落ちて、城南信金に入りました。正直、少し複雑な気持ちがありましたが、西部邁さんの『ソシオ・エコノミックス』(中央公論社、1975年/明月堂書店、2020年)が事務室に置いてあり、職場の先輩たちを見直しました。じつは私はその本が大好きだったのです。加藤先生の薫陶を受けて、社会学的な手法を用いる経済社会学への関心を深め、米国の理論社会学者タルコット・パーソンズの社会システム論に行き着きました。経済、政治、社会、文化の4つの領域から、社会を統合的に考えようとするものです。そこに、西部さんがその名もずばり『社会経済学』という名著を出されたのです。後年、西部先生の塾にも参加し、大きな影響を受けました」
――西部さんは、その後保守派の論客になっていましたね。
吉原さん「西部先生が主宰する『発言者塾(後の表現者塾)』に迷わず入りました。月に2回、土曜日に専門学校の一室に通いました。そこで保守主義についての講義を聴き、チェスタートン、エドマンド・バークなどの保守思想を学んで、幅広い年代の塾生と議論を戦わせました。塾生には、佐伯啓思さん(経済学者、京都大学名誉教授)、藤井聡さん(社会工学者、京都大学大学院教授、元内閣官房参与)など、そうそうたる人々がいて、幅広い方々と知り合うことができました」
――城南信用金庫に入ってからの歩みを教えてください。
吉原さん「最初に配属されたのはJR大森駅近くにある入新井支店でした。高卒の先輩女性たちに大いに鍛えられました。入庫して3年目の1975年、外為法(外国為替及び外国貿易法)が全面的に改正され、それまで一部の銀行のみに許されていた対外資本取引が原則として自由化されることが決まりました。その準備のため、本部と東京銀行外為センターで研修を受けました。そして城南信金の外為部へ。その頃、全国信用金庫協会が募集していた信金法制定30周年の記念論文に応募し入賞、早稲田大学ビジネススクールに通うチャンスが巡ってきました。コンピューターを使った解析論やマーケティング論、システム設計を学びました。なかでも、一番役立ったのはプログラミングです。その後、本部企画部に異動、トップマネジメントをサポートする部署です。当時のトップ、小原鐵五郎会長は1899(明治32)年生まれで、この年84歳。『貸すも親切 貸さぬも親切』という言葉で知られ、『一にも公益事業、二にも公益事業』という城南信金の創始者・加納久宜公(入新井信用組合長)の思想を受け継がれた方です。
企画部に配属された私は新商品の開発に取り組み、金融機関の目的は利益を上げることだと思い込んでいた私は、消費者向けのローン商品を提案したところ、小原会長に一喝されました。『私たちはいつから銀行に成り下がったのですか。銀行は利益を目的とする企業ですが、私たちは町の一角で生まれた、世のため、人のために尽くす社会貢献企業です』。それから信用金庫のことを何も知らなかったことを恥じ、信用金庫のことを調べ始めました」