東日本大震災からまもなく10年を迎える。城南信用金庫(東京都品川区)は、東京電力福島第一原子力発電所の事故をきっかけに「原発ゼロ」の取り組みを始めた。
その提唱者である名誉顧問の吉原毅さんに、独自の経営哲学はどのような本の影響を受けて形成されたのかを聞いた。
――信用金庫が、どうして「原発ゼロ」を掲げるようになったのですか。
吉原毅さん「福島原発事故が起きるまで、私も原発は安全なものだと信じていました。2011年3月11日、震災発生当時の私は、城南信用金庫の理事長になってまだ4か月でした。『信用金庫の原点回帰』を掲げ、『人を大切にする、思いやりを大切にする社会貢献企業』という新たな方針を打ち出し、経営改革に手を付けたばかりでした。そうした中で原発事故が起きました。事故の責任の所在すらあいまいにされようとしていることに、違和感に囚われ、原発に関する文献や資料を読みあさり、原子力発電は一歩間違えば、取り返しのつかない事態を招いてしまうと確信しました。そして、震災から3週間後の4月1日、城南信金のホームページに「原発に頼らない安心できる社会へ」というメッセージを公開すると、話題になり、多くの方が共感を寄せてくれました。それ以来、原発に頼らない社会の実現を目指すことを誓いました。これが、今の私の原点になっています」
――吉原さんのそうした個性や思想は、どうやって形成されたのでしょうか。
吉原さん「中学高校は東京の麻布学園でした。自由な校風でした。ラグビー部に入りましたが、学園紛争の時期で、資本主義と社会主義、民主主義とはということをとても真剣に論じました。その影響を受けて、『良い社会とは何か、人の幸せとは何か』について学ぼうと、慶応義塾大学経済学部に行きました。ところが近代経済学原論の講義は、需要供給曲線のグラフやら数式ばかり。『人間の幸せは科学では測れない』という。これは何か違うかなと思いはじめ、経済学への興味を失いかけたときに出会ったのが、加藤寛先生の経済政策論でした。
加藤先生は世の中では何が大事か、人の幸せとは何かという経済学の根本に立ち返り、英国の経済学者アーサー・セシル・ピグーの『経済学で最も大切なのは、困っている人たちを何としても救いたいという情熱である』という言葉を引用されました。ピグーはケインズの兄弟子で、ケインズ経済学を批判する一方で、『厚生経済学』を提唱した人です。加藤先生は自民党のブレーンでもありました。国鉄の分割民営化などを推進されました。たくさんの著書をお書きになりましたが、1冊挙げるとしたら、晩年の『日本再生最終勧告』(ビジネス社、2013年)になるでしょうか。米寿を前にして起きた福島原発事故に、これでは日本は破滅する、このままでは死ぬに死に切れないとの強い想いから、加藤ゼミの教え子たちと『緊急ゼミ』を開催し、提言をまとめた本です。『ただちに原発ゼロにすべきだ。そしてかつての国鉄改革のように、電力の独占体制にメスを入れ、官庁の許認可に頼らない、真の自由化を実現し、国民の手に安全な電気を取り戻さなければならない』と主張されています」
――大学を卒業して城南信用金庫に入られました。
吉原さん「卒論は加藤先生にA評価を頂いたのですが、就活では苦戦しました。銀行の面接で志望動機を問われるたびに『社会の役に立つ公共的な仕事をしたい』と的外れな答えをしていたからです。銀行を落ちて、城南信金に入りました。正直、少し複雑な気持ちがありましたが、西部邁さんの『ソシオ・エコノミックス』(中央公論社、1975年/明月堂書店、2020年)が事務室に置いてあり、職場の先輩たちを見直しました。じつは私はその本が大好きだったのです。加藤先生の薫陶を受けて、社会学的な手法を用いる経済社会学への関心を深め、米国の理論社会学者タルコット・パーソンズの社会システム論に行き着きました。経済、政治、社会、文化の4つの領域から、社会を統合的に考えようとするものです。そこに、西部さんがその名もずばり『社会経済学』という名著を出されたのです。後年、西部先生の塾にも参加し、大きな影響を受けました」
――西部さんは、その後保守派の論客になっていましたね。
吉原さん「西部先生が主宰する『発言者塾(後の表現者塾)』に迷わず入りました。月に2回、土曜日に専門学校の一室に通いました。そこで保守主義についての講義を聴き、チェスタートン、エドマンド・バークなどの保守思想を学んで、幅広い年代の塾生と議論を戦わせました。塾生には、佐伯啓思さん(経済学者、京都大学名誉教授)、藤井聡さん(社会工学者、京都大学大学院教授、元内閣官房参与)など、そうそうたる人々がいて、幅広い方々と知り合うことができました」
――城南信用金庫に入ってからの歩みを教えてください。
吉原さん「最初に配属されたのはJR大森駅近くにある入新井支店でした。高卒の先輩女性たちに大いに鍛えられました。入庫して3年目の1975年、外為法(外国為替及び外国貿易法)が全面的に改正され、それまで一部の銀行のみに許されていた対外資本取引が原則として自由化されることが決まりました。その準備のため、本部と東京銀行外為センターで研修を受けました。そして城南信金の外為部へ。その頃、全国信用金庫協会が募集していた信金法制定30周年の記念論文に応募し入賞、早稲田大学ビジネススクールに通うチャンスが巡ってきました。コンピューターを使った解析論やマーケティング論、システム設計を学びました。なかでも、一番役立ったのはプログラミングです。その後、本部企画部に異動、トップマネジメントをサポートする部署です。当時のトップ、小原鐵五郎会長は1899(明治32)年生まれで、この年84歳。『貸すも親切 貸さぬも親切』という言葉で知られ、『一にも公益事業、二にも公益事業』という城南信金の創始者・加納久宜公(入新井信用組合長)の思想を受け継がれた方です。
企画部に配属された私は新商品の開発に取り組み、金融機関の目的は利益を上げることだと思い込んでいた私は、消費者向けのローン商品を提案したところ、小原会長に一喝されました。『私たちはいつから銀行に成り下がったのですか。銀行は利益を目的とする企業ですが、私たちは町の一角で生まれた、世のため、人のために尽くす社会貢献企業です』。それから信用金庫のことを何も知らなかったことを恥じ、信用金庫のことを調べ始めました」
――ユニークな新商品を開発されたことで吉原さんは有名ですね。
吉原さん「1983年から金融機関で窓口販売が始まった国債に目を付けました。積み立て機能をプラスし、積立金が一定額までたまったら、国債と定期を7対3で買い入れる『城南貯蓄国債口座(トップ)』を、得意のパソコンを駆使して開発しました。また、金融自由化に対応し、『城南スイスフラン通知預金』を開発しました。規制金利の円預金よりはるかに高利回りで、しかも為替差益は雑所得扱いとなり、利息のように課税されません。1986年に発売すると、1か月で500億円を超える大ヒット商品になりました」
――その後、吉原さんは「クーデター」を起こしますね。
吉原さん「平成となって間もない1989年、小原会長が89歳で亡くなられました。その後、なりふり構わず権力を奪った後任理事長の『恐怖政治』と専横が続きました。経営の私物化が進み、経営方針も混乱し、業績は急激に悪化しました。そこで2010年11月、定例役員会で私は理事長の解任動議を提案。副理事長だった私が理事長に昇格しました。『クーデター』とも報じられましたが、法的な手順を踏んだ正当な経営陣の交代であり、クーデターではありません。
理事長と会長の任期を通算で最長4年、定年を60歳にしました。また、理事長権限から人事権を切り離し、人事委員会に一任するようにしました。さらに経営が私物化される要素を排除するため、国政の三権分立を参考に、執行、管理、監査、内部監査の権限を分離する5権分立体制としました。これらの背景にはプラトンの『国家』(岩波文庫)の影響があるかもしれません。アテネの民主主義がいかにして腐敗していったのか、独裁主義が生まれたのか。そうならないように徹底的に考えました」
――ご自身も60歳で理事長を退かれ、さまざまな仕事や著作活動をされていますね。
吉原さん「『原発ゼロ』を実現するため、講演・執筆活動も行っています。著書に『城南信用金庫の「脱原発』宣言』(2012年、クレヨンハウス)『原発ゼロで日本経済は再生する』(2014年、角川oneテーマ21)『信用金庫の力』(2012年、岩波ブックレット)などがあります」
吉原さんの近著は「この国の『公共』はどこへゆく」(2020年、花伝社)だ。元文科省官僚で映画評論家の寺脇研さん、元文科省次官の前川喜平さんとの鼎談だ。前川さんは麻布学園の同級生であり、同じラグビー部のロックとして試合に出場した友人でもある。
「自主独立」を掲げる麻布学園の校風、慶応義塾大学経済学部の恩師・加藤寛さんの著作、西部邁さんの「社会経済学」と伝統的な保守思想、プラトンの国家論......。それらが渾然一体となって、吉原さんの思想と行動を形づくったことが伝わってきた。(渡辺淳悦)
プロフィール
吉原 毅(よしわら・つよし)
城南信用金庫名誉顧問
1955年東京都生まれ。77年慶応義塾大学経済学部卒。城南信用金庫入職。83年企画部配属、92年理事・企画部長、96年常務理事、2000年専務理事、06年副理事長、10年理事長就任。定年を60歳とするなど、コーポレートガバナンスを目的とした改革を断行、15年理事長を退任し相談役に。17年顧問、20年名誉顧問に。現在、しんきん成年後見サポート理事長、麻布学園理事長、日本社会連帯機構副理事長などを務める。