令和に入って3年。完全な実力主義の世の中になったかと思いきや、まだまだ出身大学が年収に影響しているようだ。
就職・転職のジョブマーケット・プラットフォームを運営する「OpenWork 働きがい研究所」が、会員ユーザーの口コミ投稿から調査した「【年齢別】出身大学年収ランキング」を発表した。
調査によると、30歳時点での年収は1位が東京大学、2位一橋大学、3位慶應義塾大学...と、ありがちな傾向を示したが、25歳から45歳までの年収上昇額をみると、超意外な大学がランクインした。1位は一橋大学なのだが、3位の東京大学を押しのけて「防衛大学校」が2位に浮上したのだ。
いったい、どういうことか。
40歳以降は東京大を押しのけて一橋大が1位に
「OpenWork」は、社会人の会員ユーザーが自分の勤務している企業や官庁など職場の情報を投稿する国内最大規模のクチコミサイトだ。会員数は約340万人(2020年1月時点)という。
「年収・待遇」「職場環境」「社員の士気」など8つの項目で、自分の職場を評価して投稿する。その中に企業の「年齢別年収」を浮き彫りにするコンテンツもあり、登録された会員の年収データを元に、独自のアルゴリズム(計算システム)によって企業ごとに異なる賃金カーブを25歳から5歳刻みで可視化することができるという。
今回の調査では、2018年3月~21年1月にかけて登録した会員の年収と出身大学のうち、100件以上データがあった大学206校(11万5265人)を対象にした(大学院は除外)。各大学出身者の年収と年齢の分布から各年齢の想定年収を算出した。そして、トップ30の大学を発表した=表参照。
そして、次のことがわかった。
(1)30歳時の想定年収は1位東京大学、2位一橋大学、3位慶應義塾大学、4位京都大学、5位東京工業大学がランクイン
(2)「年収では官高民低」。30歳時想定年収の上位30校のうち20校を国公立大学が占め、私立大学は10校しか入らなかった。
(3)25歳時、30歳時、35歳時では東京大学が1位だったが、40歳時、45歳時では一橋大学が1位となり、年齢があがるにつれ「経済総合大学」の一橋大学が強みを発揮する。
(4)25歳から45歳にかけての年収アップ額をみると、1位は唯一プラス700万円台を出した一橋大学(プラス715万円)だが、なんと2位に防衛大学校(プラス653万円)が躍進。3位の東京大学(プラス650万円)を追い越した。ちなみに、4位は東京薬科大学(プラス649万円)、5位は京都大学(プラス635万円)である。
防衛大学校の年収急上昇は新幹線級の出世スピード
防衛大学校の年収が急上昇した秘密は、どこにあるのか――。
「OpenWork 働きがい研究所」の発表資料には、説明がない。そこで、防衛大学校のホームページを見ると、学生の時から「年収」に恵まれていることに驚かされる。「学生の身分・待遇」として、こう書かれている。
「学生の身分は、特別職の国家公務員です。修業年限は4年間。全員学生舎に居住し、被服、寝具、食事などが貸与又は支給されるほか、毎月学生手当(令和元年12月現在:11万7000円)が支給されます。また6月、12月には期末手当(年39万7800円)が支給されます」
「卒業後の進路」には、こう書かれている。
「厳しくも有意義な学生生活を終えた後には、自衛官任官への道が待っています。幹部候補生として各自衛隊の幹部候補生学校に入校します。将来は各自の能力・努力に応じて重要な地位に就くことになります」
そして、約1年の訓練を経て、いずれも幹部自衛官の「3等尉」に任命される。自衛官は最高幹部の「幕僚長」(企業なら社長に該当)から「将」「佐」「尉」「曹」「士」(平社員に該当)と計16階級あるが、「尉」以上が幹部自衛官と呼ばれる。つまり企業で言えば、入社2年目から「課長」が約束されているわけだ。あとはトントン拍子に偉くなるだけだから、鈍行列車に乗った一般自衛官に比べ、新幹線に乗ったようなスピードで年収もアップするのだろう。
「渋沢栄一精神」の有無が東京大学の敗北に
一方、東京大学を上回る一橋大学の年収アップの秘密はどこにあるのか。一橋大学といえば、数多くの経済人を輩出している大学だが、現在NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一が「経済人の養成のために創立した」とよく喧伝されている。
ところが、一橋大学のホームページを見ると、こう書かれている。
「明治 8年(1875)年 8月 森有礼が東京銀座尾張町に商法講習所を私設する。9月24日同講習所の開業を東京会議所から東京府知事に届け出る。この日を本学創立記念日とする」
つまり、本当の創立者は「近代教育行政の父」と言われた薩摩人の森有礼というわけだ。それがなぜ渋沢栄一になるのか。「年表でつづる大学の『始まり』物語」というサイトをみると、「渋沢栄一と一橋大学」について、こんな記述がある。
「森有礼が私塾『商法講習所』を開設するも、直後に特命全公使として清国渡航を拝命したため、経営に携わることができなくなり、存亡の危機に。(渋沢栄一らが)有志による献金を提唱、経費を補充する。『東京商業学校』と改称...。渋沢栄一が経営を任されることになった」
東京商業学校(一橋大学の前身)が軌道にのった頃、渋沢栄一は「官尊民卑」の世俗を憂い、また東京大学の学生が実業を軽視する風を嘆じ、東京大学総理(学長)の加藤弘之に訴えた。すると、加藤弘之は是非、実際に学生に講じて欲しいと依頼した。そこで渋沢栄一は東京大学文学部の講師になり、「日本財政論」を教え始めたとある。ちなみに東京大学で、経済学部の前身である経済学科が法学部の中にできたのは、ずっと後年の1908年(明治41年)である。いかに「経済」を軽視していたかわかる。
こんなふうに、官界に権勢をふるい実業を下目に見てきた東京大学と、「経済と人々の生活」を重視する渋沢栄一の精神を叩き込まれてきた一橋大学の違いが、現在の年収の差にも表れてきているのかもしれない。
(福田和郎)