荒野の鉄道としてスタート
阪急は、1910(明治43)年3月、当時、大阪北部の箕面や兵庫県東部の宝塚と大阪を結ぶ箕面有馬電気鉄道として営業を開始した。箕面や宝塚は当時、未開発の地。箕面有馬はいわば荒野を行く鉄道であり、実業家や出資者にとっては「あり得ない路線」だったが、小林一三は鉄道を人や物を運ぶ目的のためのものではなく、都市を発展させ人々が豊かな生活を送るための手段として考え、このことを粘り強く主張して出資者を説き伏せ、開業にこぎつけた。
開業後、荒野だった沿線に人々が居を構えるようになり小林の考えたことは、結果的に大成功となる。小林も住宅開発に打って出て、その事業でも「人々の暮らしをより豊かにする」ことを追求。「一定の広さやクオリティを確保したものを用意。人々が憧れを持ち、豊かに快適に暮らせるという『夢』が実現できる...箕面有馬の沿線は、そんな地へと変貌した」という。
「人々の暮らしをより豊かにする」という考えをベースにして、小林一三は、沿線開発、鉄道のアップデート、新規事業開拓へと進む。宝塚歌劇の誕生、マルーン色の阪急電車の定着など。野球に関する事業にも手を広げ、「夏の甲子園」の第1回大会は、阪急が作った豊中グラウンドで行われている。