2021年の箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)も例年以上に大いに盛り上がった。日本テレビ「第97回箱根駅伝」の平均世帯視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区)は1月2日の往路(7時50分~14時5分)が31.0%、3日の復路(7時50分~14時18分)が33.7%、往復の平均が32.3%だった。日本テレビによると、視聴率は歴代1位だったという。
箱根駅伝を新年の国民的なイベントとしてここまで人気を得たのはなぜなのか――。歴史を振り返ると、読売新聞と日本テレビのバックアップが大きいことがわかる。
「関東ローカル」の地味な大会
箱根駅伝は1920年、日本マラソン界の父とされる金栗四三らの呼びかけで始まったことで知られる。第1回の出場校は東京高等師範学校(現・筑波大学)、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学の、たったの4大学。いまとは比べものにならない地味なものだった。戦中戦後の混乱期には5回中断した。
箱根駅伝には誕生当時からメディアが密接にかかわってきた。戦前は報知新聞が支え、同社が戦時中に読売新聞に吸収されてからは読売がバックアップした。しかし、すぐに今のように大人気になったわけではない。
テレビ放送は意外なことに、案外遅い。1979年(第55回)からだ。それも当初は、テレビ東京だった。まだ箱根駅伝が関東ローカルの大会だったことがうかがえる。テレ東の放送は86年に終了。後を引き継いだのが日本テレビだ。
87年(63回大会)から特別後援に入り、全国ネットの中継が始まる。その結果、箱根駅伝が一気に国民的イベントとして「格上げ」されることになった。長く後援にとどまっていた読売新聞も2004年から、共催という形で運営に深く関わるようになっている。
「能登駅伝」が三大駅伝の一つだった
いまや読売・日本テレビグループの一大イベントとなっている箱根駅伝。ただ、そうなったのは意外に新しい。
「箱根駅伝を超えようとした幻の『能登駅伝』」(能登印刷出版部)は、そのあたりの裏事情を書いている。現在、大学男子の三大駅伝といえば、「箱根」を頂点に、「全日本」(秩父宮賜杯 全日本大学駅伝対校選手権大会)と「出雲」(出雲全日本大学選抜駅伝競走)だが、約半世紀前には、「能登駅伝」というのがあったそうだ。まだ「出雲」が始まる前の話だ。
「能登駅伝」は1968(昭和43)年に始まり、77(昭和52)年に幕を閉じた。文字どおり能登半島を一周するコース。全国から有力校が参加した。
開催のきっかけは、能登半島が国定公園に指定されたこと。観光PRの一環として地元の七尾市と読売新聞が大学生の駅伝大会を発案。企画運営は金沢大学など北信越地区の大学陸上部の学生たちが担当した。
当初は一回限りの予定だったが、初回の成功で毎年開催に切り替わる。背景には「駅伝」をめぐる読売新聞の事情があった。
「箱根駅伝」を全国区に押し上げる!
当時、読売新聞は青森と東京までを駆け抜ける「青東都道府県対抗駅伝」を主催していたが、交通事情の悪化で年々開催が困難になっていた。同じ理由で、深くかかわる箱根駅伝も存続が困難になるかもしれないという危機感を持っていた。
そこで、新たなる駅伝を立ち上げようとした。社主の正力松太郎氏が富山県出身なので、「能登」は場所的にも好都合だった。
つまり、読売新聞が主導したことで、「能登」は成立した。当時の決算書を見ると、300万円余りの事業経費のうち約半分を読売新聞が負担していた。
こうして「能登駅伝」は軌道に乗るかに見えたが、オイルショックなどによる日本経済の苦境が大会を直撃した。読売新聞は補助金を削減して撤退の方向へ。最大のスポンサーを失ったダメージは大きく、大会は77年にピリオドを打った。
一方、「能登駅伝」よりも先の1974年に、「青東駅伝」は終わっていた。読売新聞は必然的に「箱根」に力を入れることになる。「青東駅伝」「能登駅伝」を見切って、「箱根」に注力したということになる。
よく知られているように、マラソンや駅伝はテレビ中継で広告が集まるかどうかが生命線だ。広告代理店がテレビ中継のメーンスポンサーを見つけてきて、テレビ局や大会主催者にドカンと金を落とす。その金で全体が運営され潤う。そのために主催メディアも「コンテンツ」をとことんPRする必要がある。
「関東ローカル」だった大会を「全国イベント」として定着させたのは、選択と集中に踏み切った読売新聞・日本テレビのビジネス戦略が成功した結果だといえる。社員の年始の休みも吹っ飛ぶわけだから、当時の経営陣としては相当大きな決断だったと推測できる。