ヤマト運輸、初日に扱った荷物は11個
当時は小荷物を送る際には郵便局の窓口に持ち込むことしか手がなかった。運送会社が事業として荷物をピックアップし配送することは、とてもコストに見合うものではないと考えられていた。当時の運送業界においては、いかに大口の荷を任せてくれる顧客をつかむことが営業活動だった。
大和運輸は業績を改善できないままの一方、日本はオイルショック(1973年)に見舞われた。その煽りをうけて1975年、大和運輸はそれまでで最大規模の赤字を計上。小倉氏は「郵便局と競争して小荷物配送を行う」と挑戦を決意したそうだ。
長距離の大きな荷物がダメなら、近くで集荷できる小荷物を――。
どの会社もやっていない集荷事業の先駆者に――。
こうした逆転の発想をもとに、会社再建のため小倉氏は断固たる決意で「宅急便開発要綱」を作成し1976年1月から営業を開始した。
実施のために小倉氏は、まず取次店を開拓。当初は手数料を払って酒屋に委託した。そして料金設定をわかりやすくするため細分化せず、運送先をブロック化してブロック内は同一料金にした。
営業開始初日に扱った荷物は、わずか11個。「この11個の小荷物が、日本の運輸に革命をもたらし、日本人の生活スタイルを変えていくのです」と、著者はいう。小倉氏が始めた事業はのちに大成功となり、次々と運送業者が宅配事業に参入。ECの拡大に伴い、なくてはならない存在になっているのは、周知のとおりだ。