日銀はなぜ異次元緩和の道にはまったのか?

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続く金融危機

   松下康雄総裁時代の1997年9月、日銀法は改正されたが、すぐに厳しい運営を余儀なくされた。準大手の三洋証券の法的整理、北海道拓殖銀行の破たん、山一証券の自主廃業と金融危機が続いた。その後、各地の地方銀行で起きた取り付け騒ぎが起こる。1997年11月26日は、日本の「金融システム崩壊に最も近づいた日だった」という日銀幹部の論文を引用している。

   98年、幹部の接待汚職が明らかになり、日銀の威信は地に落ちる。OBで日商岩井相談役の速水優が三重野の推挙で新しい総裁に就任した。新日銀法はそんな沈滞ムードのなか、施行された。民間の生きた情報を得るために、金融機関との付き合いや接触を奨励する気風があったが、不祥事が生じたことで、外部との接触は断たれることになった。

   99年にゼロ金利政策が導入された。1年近いゼロ金利と米国のITバブルの恩恵で、2000年になり、日本経済は回復しつつあった。8月に速水総裁はゼロ金利を解除。「独立」の手応えを感じた。

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